第162話 脇坂安治、エーゲ海を征く

 脇坂安治一行はトルコのオスマン朝エジプト州に上陸するや土地の民を案内人として雇い入れ、カイロへ到着。エジプトは西暦1517年にオスマン朝がエジプトを征服して以来、総督の管理する土地となっている。


 現在の総督はハドゥム・ハフィズ・アハメド・パシャであり、安治は謁見を申し込んで返事を待った。黄色い肌の東アジア人は目立つ。噂を聞きつけたユダヤ商人や学者などが多数訪問してくる。

  

 安治たち一行は日本やアジアの産物や動植物が描かれた書籍を示して説明すると商人や学者たちの眼は何れも輝いた。半世紀以上に渡ってポルトガルがインドや東アジアとの貿易で支配的地位を確立している。


 日本はスィーン(中国)の東方にある国である事を告げると、学者は「それはワークワークの国ではないのか」という。アラブやペルシャでは確認しうる限り、9世紀頃からワークワークに関する記録があった。


 ワークワークはスィーンの東方にあって、黄金に富んでいるというもので、さらにシーラという国も出てくる。ワークワークは日本でシーラを新羅だとする解釈もあるが、特定されてない。


 広東語で倭国に対する発音が語源とする見解も存在する。インドネシアやフィリピンに比定する説もあるが何ともいえない。マルコポーロが東方見聞録で記述した黄金の国ジパングはワークワーク伝承を元にされているという推測も成り立つ。しかし、これにしても本当のところは定かでない。


 エジプトの商人や学者は安治たちが誇張していう3千万人の人口、百万人の常備兵、百万丁の銃、溢れる金や銀などの話を聞き、日本こそ伝説の黄金国ワークワークであると確信した。


 何れワークワークこと日本がポルトガルの東方航路を駆逐する事へ期待せずにいられない。安治たちが持参している磁器、絹、生糸、日本刀、茶、葉巻などを見て、取引を強く希望するのであった。


 安治は鍛冶屋を見物するなどしつつ、ある日ピラミッドへ行く機会を得た。ギザのピラミッドは完全に砂の下というわけでなく、大半は露出している。安治は近くで見た途端、驚嘆する他なかった。


 石は下の方だと高さ1.5mほどもあり、そんな物が無数にある。これだけの石を何処で切り出し、どうやって持ってきたのか。どれほどの人数で何年間、いや何十年かかるのか考えただけでも気が遠くなる。途方もない国だと思った。


 そして、ピラミッド見物から数日してハドゥム・ハフィズ・アハメド・パシャへの謁見が叶った。儀式的なものではなく、質問攻めにあう。オスマン朝は現在ペルシャと休戦状態ではあるが宿敵関係だ。


 ペルシャに接近させたくはないのと、イスパニアやポルトガルとの関係が、やはり問題となる。オスマン朝にとってハプスブルク家はペルシャと並ぶ宿敵なのだ。イスパニアとポルトガルの王であるフェリペ2世はハプスブルク家の出身に他ならない。


 オスマン朝にとってはハプスブルク家の治めるウィーン攻略は悲願だが未だ成し得ないままだ。それどころか西暦1571年にレパントの海戦でオスマン朝海軍はイスパニア艦隊へ大敗を喫した。これ以降、イスパニア艦隊は無敵艦隊と称している。


 オスマン朝が地中海へ進出した当初、ヴェネツィアやジェノヴァと懇意な関係を築いた。しかしハプスブルク家と対立するフランス商船が西暦1569年に来航し始めると状況は不安定となる。レパントの海戦ではイスパニア、ヴェネツィア、ローマ教皇領などの連合艦隊と戦った。


 対ハプスブルク家で被害が一致したオスマン朝とフランスは同盟を結ぶ。フランスは西暦1589年に国王アンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝は途絶える。そしてブルボン朝となった。


 ブルボン家のアンリ4世は新教徒でカトリック教徒と対立し、パリへ入れず、フランスは分裂状態。こうした事態を収拾するため、アンリ4世は西暦1593年(安治がカイロへ至ったのは1591年)にカトリックへ転じる。


 無論、カトリック教徒の背後にはフェリペ2世が居るわけで、アンリ4世は西暦1594年にパリへ入った後、翌年イスパニアへ宣戦布告。イスパニアから支援されたブルターニュを平定。


 このように欧州はカトリックとプロテスタント、ハプスブルク家を巡る対立、オスマン朝など様々な要素で混乱していた。イスパニアが貿易で莫大な利益を得ていたというが、財政状況は常に逼迫。


 西暦1557年にフェリペ2世は最初の破産宣告を行い、60年、75年、96年と繰り返している。


 安治は幕府よりの書状でオスマン朝とペルシャやハプスブルク家、ハプスブルク家と英仏蘭、キリスト教内の新教徒と旧教徒などの対立関係を把握していたが改めて確認した。


 ハドゥム・ハフィズ・アハメド・パシャも日本が、もしアジアや新世界におけるイスパニアやポルトガルを潰せば、願うところであり、色々と質問を投げかける。


 安治はガレオン船や青銅製大砲の保有数はまだ少ないが、あと数年もあれば十分な数は揃う、と述べたのだ。これは戦力さえ整えばイスパニアやポルトガルと戦う用意があると判断され、コンスタンティニイェ(現代のイスタンブール)へ行く事を許可された。


 安治たち一行はアレキサンドリアへ移動し、その後キプロス島経由でコンスタンティニイェを目指したのである。








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