第161話 脇坂安治、エジプトへ上陸

 昨年、ヴィジャヤナガル王国のチェンナイ(マドラス)へ寄港した脇坂安治率いる織田幕府艦隊は土地のナーヤカ(大名のようなもの)や国王の歓待を受け、チェンナイでの貿易が許可された。


 安治は艦隊の内、1隻を昭南島(現代のシンガポール)へ補給と連絡のため送り出し、自身はペルシャを目指す。ペルシャ湾の入口あたりはホルムズ島一帯がポルトガル領となっている。


 さらに対岸のアラビア半島側のマスカットもポルトガル領だ。インドの西側にあるゴアやカリカット(現代のコルコタ=カルカッタ)もポルトガル領であり、ホルムズ海峡とアラビア海の制海権は明らかだろう。


 つまりペルシャ湾へ入るためにはホルムズ海峡を通過しなければならないが、事実上ポルトガルの管理下だ。ペルシャのサファヴィー朝はトルコのオスマン朝やシャイバーニー朝(ペルシャの北方にあるウズベク族の国)と対立しているためペルシャ湾にまで手がまわらない。


 バグダード(現代のバグダッド)もかつての栄華は失せている。蒙古の侵攻で徹底的に破壊され、古代からの叡智も喪失した。数十万冊の学術書が消え、数十万の人々が殺戮されたという。


 この件について歴史に精通する幸田広之は愚行だと思っている。長年の宿敵である隣国を殲滅するならまだわかるが、3千kmも離れたような国へ襲い掛かり、かような行為に及ぶとなれば理解し難い。


 馬や羊という機動力で遠距離遠征が可能だ。それこそピクニックへ行く程度の気軽さにて、地の果てまで突き進み、破壊や殺戮を行う。農耕国家にとっては疫病神のような存在である。


 中華王朝が北方遊牧民族対策で万里の長城を築いたのは、もっともな話だ。そもそも自力で生産出来ない物が多すぎる。いくら遊牧民族だからといって羊や馬と乳製品さえあれば暮らせるものでもない。


 塩、米、麦、茶なども必要だ。これを羊や馬と交換するにしても、これらの家畜は年に1頭くらいしか子を生まない。ひと言で生産効率が悪いのだ。


 モンゴル高原東部地域ではナマクタリヤ農耕といわれるものがある。そのへんの草原へ黍や蕎麦(いわゆる韃靼蕎麦のたぐい)などの種を蒔き、後は収穫まで何もしない。


 まあ、こんな程度では足りるはずもなく、動員力と移動力を行使。某漫画ではないが「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」という理論で、隙あらば自由気ままに襲ってくる。襲われる方はたまったものではない。


 近隣地域に兵站の心配もなく基地ごと高速で移動してくる獰猛な武装集団が存在となれば、天文学的なコストを掛けなければ好き放題蹂躙される。


 アジア地域が欧州に遅れた原因のひとつは蒙古の存在もあろう。現代人として進んだ人権意識の広之でさえ、いずれ蒙古に対して容赦無い対応を構想していた。


 足利義満の時代、室町時代にケシの種がもたらされる。そして津軽地方で栽培が始まった。江戸時代には各地で栽培され、戦前大阪と和歌山はケシの産地だったのだ。


 ケシといえば阿片だが、広之は津軽家の協力で、津軽地方に研究施設を運営していた。いずれ薬として蒙古地域を阿片漬けにする予定だ。真綿で首を絞めながら弱体させていく。その次は欧州も阿片まみれに……。


 話をペルシャに戻そう。サファヴィー朝も、セルジューク朝以来の遊牧系部族の連合体的な体制だ。しかも首都ガズヴィーンからペルシャ湾までは大阪と広島以上の距離がある。その上、チグリス川とユーフラテス川の一帯はトルコとペルシャが激しく争い、ポルトガルを押し返すことさえ出来ない有り様……。


 ポルトガルを避けるためにはペルシャ湾でなく紅海からエジプトへ向かいオスマン朝領土へ行くほうがよい。無理してペルシャにこだわる必然性は薄いといえる。


 しかし幕府の指示ではホルムズ地域へ行く事が指示されていた。支配するポルトガルと接触するためだ。そこで東洋事情に疎い現地のポルトガル人責任者へペルシャやトルコと同盟を結ぶような事を伝える。荷物を没収され追い返される可能性があり、それこそ広之の目的であった。


 その一件でポルトガルとの緊張を高めるためだ。チェンナイを出港した安治率いる艦隊はカリカット、ゴア、ボンベイなどのポルトガル支配港に寄らず、カラチへ寄港した。


 少し前まではムガル朝に従属するアルグン朝がカラチを含むシンド州からアフガニスタン南部まで支配。しかし数年前、ムガル朝に併合されてしまう。カラチはまだそれほど栄えているわけではないが拠点とすべし、という幕府の指示だ。


 安治は交流に成功し、ムガル朝の支配者アクバル大帝へ使者を派遣。その後、自身はホルムズ海峡へ向かった。


 安治が派遣した使者はアクバル大帝への謁見を許され正式に貿易が許可された。使者は日本は宗教に寛容な国であり、統治下においては仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒などが友好的に暮らし、栄えている、と強調。


 ムガル朝はイスラム教国家ではあるが外来の支配王朝の常として比較的寛容だった。使者はさらにポルトガルはゴアを武力で占領した上、マラッカ王国を滅ぼしたり、アチェ王国とも紛争するなど各地でイスラム教徒へ激しい弾圧が行われていることなど説明。


 日本はヴィジャヤナガル王国とビジャプール王国などのイスラム教国家間における紛争へ中立を維持する。しかし、ビジャプール王国がポルトガルよりゴアを奪還するなら大艦隊を派遣し協力する、と伝えた。


 この交渉は日本へ滞在した事のあるジョホール国の者やアラビア語とヒンドゥー語の話者(どちらもジョホール人)が通訳として活躍している。日本、台湾、バンコク、昭南島など見てきたジョホール人は如何に大坂や各地が栄えるか熱弁を振るった。


 ちなみに安治の艦隊には日本人の他、明国、琉球、呂宋、シャム、カンボジア、チャンパ、ジョホール、バンテン、ヴィジャヤナガルの者などが加わり多国籍集団と化している。


 安治たちは無事にホルムズ海峡に到着する前、1隻を残して他の船はペルシャ東部のある場所へ停泊させていた。その後、ホルムズ海峡へ至り、ポルトガルの支配地へ赴く。


 予定通りポルトガル人支配者へ尊大な態度を示し、積み荷と船は没収された。捕虜扱いの身となってしまう。しかし安治たちは粘り強く交渉。というか、ほぼ恫喝であった。このままなら日本と戦争になる……。


 インドへ幕府の大艦隊が向かっており、マカオ、マラッカ、ゴアなど陥落すれば貴公の責を問われるだろうし、フェリペ2世とは友好的関係を保っている、と強調。こうして最低限の食糧だけ与えられ、立ち去ることが許された。


 安治たちは残していた艦隊と合流するや、予定通り紅海へ進入。オスマン朝と接触しつつ、シナイ半島西部へ上陸を果たす。そしてアラビア半島で買い付けた駱駝に乗りカイロへ向かった。


 西暦1517年(ユリウス暦)にオスマン朝がエジプトのマムルーク朝を征服し、以来総督が統治している。現在の総督はハドゥム・ハフィズ・アハメド・パシャという。


 砂漠の海を進む安治であった。途中、何度か盗賊団に襲われたが全て撃退して、カイロへ到着すると、総督への謁見を取り付けたのである。

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