第157話 小西行長の食卓

 シャム国アユタヤ朝は幾つかの王家があり、江戸時代の徳川御三家御三卿に似ている。ナーレスワン大王はかつて独立国であったがシャム国に取り込まれたスコータイ王家の系統だ。


 そうはいっても血統的には全く無関係で、父親のクン・ピレーントーンテープは元々身分の低い役人であった。しかしアユタヤ王家の内紛で、チャクラパット王の即位に功績があり、娘を妻として貰い、ピサヌロークの知事となる。


 さらにミャンマーがアユタヤを陥落させるとクン・ピレーントーンテープは統治を任され、サンペット1世として即位。傀儡の王となった。日本の史実における羽柴秀吉のような成り上がりの大出世だ。


 ナーレスワン大王(アユタヤ朝第21代)が絶対的な権威を有しているというわけでもなく系統は第23代で途切れてしまう。王位はナーレスワンから弟のエーカサロットへ引き継がれる。その後はエーカサロットの子であるソンタム。


 ソンタムの次代からアユタヤ朝王位はプラーサートトーン王家に移ってしまう。つまり、クン・ピレーントーンテープから始まる王位は3世代しか続いていない。


 ナーレスワン大王は中央集権的な体制を試みる。そうはいってもタイ族は元々雲南省の出自であったが、元朝の圧力によって南下しており、いわば外来の新興勢力。


 クメール人、モン族、クイ族(モン・クメール語族)、マレー系などの土地へ都市国家を築きつつ拡張してきた。そういう意味において都市国家の連合体ともいえる。


 また土地に対して人の数が不足しており納税、軍役、労役を担う民の帰属や所有は厳しい。そのため、バンコクにおいてシャム人は割合程多くなかったりする。


 所属地域から離脱してきた者は織田幕府よりアユタヤへ報告の上、賠償金を支払っていた。ただしシャム人の領地から来たクメール系はカンボジアから来た事にしている。


 それ以外にも純粋なシャム人であってもラーンナーやラーンサーン出身という事にして人別帳を作っていた。これ以外にも日本人部隊はミャンマー支配領域へ従軍し、捕虜を連れ帰っている。


 さらにバンコクの扱いは租借地ではあるが、小西行長はアユタヤ朝から知事に任命されていた。


 行長の役目はアユタヤ日本人町の管理、バンコク開発、貿易管理もさる事ながらシャムの国勢調査が最大の使命だ。ナーレスワン大王に取り入って各地で測量を行いつつ大まかな検地もしている。


 基本的にアユタヤ朝の基盤はチャオプラヤー川の中下流域における浮稲栽培(ほぼ何もせず水稲栽培出来る)による米収穫が支えており、バンコクのような湿地帯や稲作向きでない土地への関心は薄い。


 そのような土地で明国人やクメール人に砂糖きび、綿花、紅花、ウコン(黒生姜ことクラチャイダムを含む)、芍薬(漢方)、香辛料などが栽培されている他、漁業や畜産も行われていた。


 また膨大な米糠を利用して油、砂糖、紙、塩、木綿、肉や魚の加工、木材加工、造船、醤油、味噌、酒、味醂、酢、蝋燭、薬など様々な生産をしている。


 問題があるとすれば幕府の抱えている明朝の密貿易系商人と旧来からアユタヤで活動している華橋や正規貿易系商人との軋轢だろうか。


 しかし、もはや旧来の華橋や正規貿易系商人ではバンコクの勢いを止めれない。ましてや明国は再び海禁を行っており、アユタヤ華僑にとっては致命傷ともいえる。


 これには行長のナーレスワン大王へのご注進もあった。シャム国が形だけとはいえ明国の冊封関係にあるため、華僑は属国と見做している、と。


 バンコクでは漢字だけの看板は禁止されていた。シャム語併記で漢字はそれより小さくしなければならない。またバンコクに住む人たちは全てシャム人風の衣服を着ることが義務付けられている。行長たち日本人は髷も止めていた。


 仏教寺院への手厚い保護や托鉢僧への対応など全てに抜かりはなく在地化を進めている。当然、ナーレスワン大王はこのような処置に満足しており、明朝との非正規貿易が首尾良く運べば朝貢の見直しも考えていた。


 そんな行長であるがシャムに来て心境の変化も多々ある。先ずキリスト教徒だが宗教というのは国とイコールである事を痛感していた。シャムでは毎朝僧侶が托鉢し、貧しき者もタンブンする姿に感銘を受け、幕府の指示が無くとも極力在地を尊重すると決意。


 食事も出来る限りシャム人と同じ物を食べたり、明国やジョホールなどの料理へも挑戦している。シャム人が差し出せば昆虫さえも口にしており、適応力は高い。


 ある日、行長は屋敷へ戻り水浴びをして汗を流し、寛いでいた。


「お奉行、支度が出来て御座います」  


「然様か、ならば用意致せ」


 運ばれてきたのは上等なシャム米、魚のスープ、野菜と付け味噌、グルクマの塩焼きが並ぶ。普段の食事はこんなものである。


 野菜と付け味噌は生や茹でた野菜をタレに付けて食べるだけだ。タレはガピ、ナンプラー、絞ったマナオ(柑橘類)、タマリンド、にんにく、生姜、干し海老、小粒の茄子、唐辛子、焼いたグルクマのほくじなどをクロックという小さな石臼で叩いたディップ上のタレはご飯に掛けて食べても美味しい。


 行長も初めのうちは苦戦したが、今では好物となっている。グルクマの身を骨から外し米の上に置き、タレを掛けて食べるのは最高だ。


 腹を満たすとラオカオ(焼酎)と肴が運ばれてくる。ネーム、ムーヨー、ホイクレーン・ルアック(赤貝に似たサルボウ貝をレアに茹でた物)、烏賊の半日干し、カオトムマット、パパイアなどが並び、至福の時だ。


 カオトムマットは糯米にバナナ、小豆、ココナッツミルク、砂糖などを加えたものをバナナの葉に包み蒸したものである。決して甘党という事でも無いが、これも行長の好物だ。

 

 風味付けに台湾産のラム酒が入っており、ラオカオ飲みながら食べると物凄く合う。ねっとりした食感とココナッツやバナナの風味が絶妙だ。日本の羊羹や葛餅より美味い、と行長は思っていた。


 ココナッツミルクでバナナ、薩摩芋、タピオカを煮たものも好きで、こちらは申の刻茶時によく食べている。


 丹羽長秀が明国や朝鮮の北方に女直といわれる人々の土地へ向かったという。かつての主君である羽柴秀吉も女直の土地で戦っているらしい。暑いのと寒いのとではどちらがいいのか迷う行長であった。


 それはともかく、昨年マラッカの西を目指し旅立った脇坂安治は無事なのであろうか。艦隊から1隻の船が昭南島(シンガポール)へ戻り、また本隊へ合流すべく去った。


 さらに、バンコクからヴィジャヤナガル王国のチェンナイ(マドラス)へ貿易のため船を派遣して欲しい旨の要請もあったのだ。行長は必要な商品を揃え、新たな艦隊を派遣するなど、対応に追われた。


 安治自身は、書状によれば天竺から波斯(ペルシャ)へ至り、それより西方のトルコへ向かうそうだ。かなり、遠い所のようである。これから日本と織田幕府はどこへ向かうのであろうか……。


 などと考えつつ夜風に吹かれながら、ゆっくり盃へラオカオを注ぐ行長であった。

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