第131話 沿海府

 丹羽長秀たち一行は沿海州到着後、周辺を視察しつつ、連日評定が行われた。すでに秀吉たちが相当な範囲で検地(主に集落の戸数や族名、地理など)や測量を行っており、その確認作業から始めている。


 さらに秀吉達が選定していた沿岸から40km(10里)ほど遡った地点に沿海府の拠点となる沿海城と城下町の普請を決定。


 現代ではニコラエフスク・ナ・アムーレという町だ。漢名は尼港(以後、尼港)であり、戦前のロシア内戦期、赤軍パルチザンによって白系ロシア人や日本人が虐殺された尼港事件の起きた地として知られる。


 この他にも尼港から北にあるオレリ湖とチリャ湖の周辺、ヌルガン(奴児干)跡地の周辺、キジ湖周辺、ハバロフスク周辺。現地点を含め6ヶ所が重大拠点と定められた。


 それに先立ち自給体制を整えるため、現地点で大規模な開墾をすることになったが、馬や牛は遅れてくる船に積んでいる。


 先ずは人力で可能な範囲の畑を作り、そこへじゃが芋(秀吉達が植えている分とは別に追加で)やとうもろこしを植えることになった。


 そうはいっても米、麦、豆など後から大量に届く。北海道で加工された鰊や鱈、羽後や東陸奥(津軽地方)で収穫するじゃが芋と蕎麦も届く手筈であり、基本的に万端だ。


 織田幕府は今年度、北海道、樺太、南千島へ過去最大規模の入植者を送り込む。その中には丹波屋が手配した鉱夫たちが多数同行し、樺太で石炭の採掘を行う。


 これ以外にも、樺太や南千島では漁場も開発される。来年以降、膨大な量の鰊や鱈が水揚げされ、干し魚、塩漬け、糠漬け、魚油などにして、沿海府へ届けられるはずだ。


 冬場から春先にかけての鰊漁や鱈漁は開拓農民たちの農閑期であり貴重な現金収入(現物支給もあります)となっている。


 無論、黒龍江河口付近は冬場凍結してしまう。しかし黒龍江では夏場の7~8月に鮭が遡上する。これを夏鮭というが、日本では秋鮭しかいない。


 日本のトキシラズも本来黒龍江へ帰るところだが、迷い込んだものである。


 夏鮭の分布はカムチャッカ半島、ロシアのオホーツク海、黒龍江(アムール川)、樺太東岸。さらに秋鮭は黒龍江、沿海州沿岸、樺太西岸、南千島などだ。

  

 北海道ではアイヌへの配慮から和人は川での鮭鱒漁に手を出さない。ただ、沖合で秋鮭漁や鱒(春頃)を行っている。


 アイヌが取引で持参する鮭鱒より、沖合で取った方が早く加工されるため品質が良い。結果、アイヌの鮭鱒は2級品扱いだが、幕府があえて高い値段で買い付けている。


 大半は荒巻や塩引きにされず、鮭とばや鮭節へ加工。鮭とばになる過程でハラスの部分は和人が高値で買い、頭も和人はかぶと煮、かぶと焼き、かぶとのあら汁など人気があった。また氷頭なますにする部分も切り分けられ、別途売られる。


 高価な塩が少なくて済む方法で加工され、各部位に付加価値を付け、無駄なく売りさばき、高い買い付け代金を相殺した。唯一、ふんだんに塩や醤油を使ったのが筋子だ


 秀吉たちも黒龍江で鮭鱒は米、麦、蕎麦、塩、茶、干し鱈、身欠き鰊などと交換しており、漁はしていない。


 夏鮭について説明(幸田広之からの受け売り)する長秀を最上義光は驚きの眼差しを向ける他なかった。


 かつて最上家の家臣に鮭延秀綱(現在、伊達家の家臣)という者が居た。そのくらい羽前出身の義光からすれば鮭は身近な存在。


 鮭について尾張出身の長秀が驚くほどの知識を持っており、少し悲しい気分であった。


 長秀の案は夏鮭が黒龍江へ辿り着く前、樺太の北端から北東のあたりで一網打尽にして食料の足しにするというものだ。


 秀吉はスメレンクルたちはどうするのか尋ねた。長秀は鮭鱒を買わず、賦役の対価として米や肉などと交換させるつもりである。北海道と対応が違う点については、毛皮を集めやすくするためで、心配せずとも問題ない旨、説明した。


 実際に長秀は到着後近隣のスメレンクルの有力者たちを招き刀剣や大量の米、麦、蕎麦、豆、塩、醤油、味噌、酒などを与えており、そのへんは抜かりない。


 秀吉たちが連れてきた奴隷同然で連行してきたエヴェンキやヴェイェニンについても改めて沿海府の民として暮らすなら和人と同等に扱う事を約束した。


 従う気がない者は郷里へ帰ってもよいと説明。しかし鹿などの財産も喪失の上、幕府の大艦隊を見た彼らは直感で従う事を決意。


 長秀はスメレンクル、エヴェンキ、ヴェイェニンたちを宴に招き酒やご馳走でもてなした。


 そして、現地では沿海城の割り付け、畑の開墾、木材の切り出し、炭小屋、粘土野掘り出し、石の切り出しと運搬、煉瓦の作成、道の整備、屋敷の造営、造船所、酒蔵、風呂、豚小屋、鶏小屋、犬小屋、馬小屋、牛小屋、蔵などの工事や作業が開始されたのである。


 角倉了以は部下を何隊かにわけて、まだ測量が及んでない樺太内陸部、黒龍江の北部からカムチャッカ半島方面、沿海州沿岸へ派遣した。

 

 また、それらの各隊には丹波屋の手代が同行しており鉱脈の調査も行う。


 こうして1ヶ月ほど経過。遅れて補給の船も続々現れた。この頃には噂を聞きつけたホジェン、オロチョン、オロチなども沢山駆けつけており、大変な賑わいを見せている。黒龍江河口の地は角倉と名付けられた。


 かつて明国が永楽9年(西暦1411年)にヌルガン(奴児干)へ進出するため、海西女直出身の宦官イシハは1千あまりの兵士を率いて25艘の大型船でやってきたという。


 180年も前のことで覚えてる者は居らず、伝説の領域だ。今回、沿海府へ辿り着いた船は137隻であり水夫や北陸・出羽などで乗船した者を含めると2万人近い。


 ほぼ天変地異に匹敵する事態で地域のパワーバランスがどうしたとか、そんなレベルを超越している。そもそも幕府軍兵士の半数以上は銃を所持しており、イシハの遠征などとは比較にならない。


 6月上旬(西暦では7月)になり長秀は秀吉の他、前田利家、真田信繁(幸村)、最上義光、蘆名政道(伊達小次郎)、徳川秀康などを伴いエドゥンの故郷を目指した。その数6千あまり。


 昨年の段階で黒龍江を大型船で航行する際、小型船を先行させるなどして難所はほぼ確認済。


 エドゥンは一足早く故郷へ向け、出発していた。それには片桐直盛(且元)も同行している。


 後世では、これから始まる騒乱を“満蒙の役”という。


 

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