第129話 幕府艦隊、ベンガル湾に突入す
織田幕府の大艦隊は昨年の夏頃、大坂を出港後、琉球を経て台北へ集結。艦隊の約7割近くは台湾への補給物資と明国向けの商品を積んでいた。
今回、台湾へ入植した日本人は約1万3千人。荷物と入植者を降ろした船は明国商船から買い付けた商品を満載させマカッサル、スラバヤ、ジャカルタ、ブルネイ、テルナテ、アユタヤ(バンコク含む)、プノンペン、ホイアン、ハイフォン、プレイノコール(現ホーチミン)、パタニ、ジョホール、昭南島、マニラ、カガヤン、マラウイなど各地へ向かったのである。
その中には日本からの商品を積んだままの船もあった。これらの艦隊以外にも各地へ常駐し、人員の輸送や現地での細かい輸送を行っている船も多数存在している。
常駐する湊には日本人町が存在していた。昭南、ジャカルタ、スラバヤ、アユタヤ、バンコク、プノンペン、ホイアン、ハイフォン、プレイノコール、マニラ、カガヤン、マラウイなどだ。
今回、バンコクには4千人が送られる。プレイノコールには2千人づつ。何故ならバンコク、プレイノコール、昭南は租借地に近い。
台湾経由で大量の明国人、琉球人、呂宋人(主にイロカノ族)などが3大日本人町へ送り込まれている。さらにバンコクはカンボジア南部からも大量のクメール人を移住させていた。
日本人は今回の分を含め8千、琉球人4千、明国人2万、クメール人3万、シャム人1万からなり、すでに王都アユタヤを凌駕するような勢いを見せている。
基本的には幕府における大きな町と同じような統治がなされており、明国人やクメール人の町名主へ一定の役割を担わせていた。
シャム最大の輸出品は米だが、最大の輸出先は明国である。幕府もシャムから大量の米を買い付けており、多くは台湾に運ばれた。
また呂宋人にタイ米を売り、キャッサバ、タピオカ粉(キャッサバから作る澱粉)、木材、皮、藿香(カッコウ。漢方やお線香になる)、黒沈香(香木)を買い付けている。
呂宋人は台湾にも数多く移民させており、幕府管轄下だけで4万人。13万人の内に、明国人が5万人であり、匹敵するほどの数だ。
もっとも明国人の多くは職人と漁師が多い。それに対して呂宋人は砂糖きび畑や茶畑での労働が多かったりする。
彼らが収穫した砂糖きびでラム酒が作られており、それを買って飲む。主食も呂宋で買い付けられたキャッサバやタピオカであり、幸か不幸か循環している。
台湾に運ばれた大量のシャム米は現地で消費される他、対岸の福建漁民たちに売られた。それでも大量に残るが、酒や酢となる。
食べきれない程、備蓄するのは万一日本で凶作になった場合、台湾から輸送する事を想定していた。
バンコクを担当する小西行長は元々羽柴秀吉の家臣であったが、謀反騒ぎからお国替えなど混乱する中、織田信孝の直臣となった。
これは行長の父が商人仲間である茶屋四郎次郎経由で幸田広之へ申し出た結果だ。その後、台湾に送り込まれたが、幕府のイエズス会への対応や黒田孝高(官兵衛)の棄教に思うところはあった。
しかし、呂宋で現地の民がイスパニアから受けている仕打ちやマニラで見た日本人奴隷……。
さらに大量の米をシャムより台湾へ運び、万一日本で大凶作となった場合、飢饉から民を救うためだと知って以来、幕府のため尽そうと決意していた。
バンコクの日本人は大半が元武士であり、非常時は戦闘に参加する前提だ。多くは明智、柴田、長宗我部などに仕えていた者たちである。行長自身も明智家で働いていたこともあり、それも抜擢された要因だ。
バンコクに赴任し、ナーレスワン大王からも信任されていた。大王は弟であるエーカートッサロット公の娘を三法師の正室にしたい意向を行長へ伝えているほどだ。
行長は服案として、エーカートッサロット公嫡男スタット親王に織田家血筋の女性を正室とする事を大王に進言。結局、行長に一任された。
現在、シャムの日本人はカンボジアへの援軍は断っているが、ミャンマー方面への攻略には協力していた。
銃装備の上、勇敢であり、ナーレスワン大王麾下の最精鋭部隊となりつつある。そのような活躍と貿易の拡大によりバンコクの開発が認められた。
そして、今回の大艦隊には豪州調査団とインド洋調査団が含まれている。豪州調査団はスラバヤからダーウィンへ上陸し、海路でシドニーを目指す予定となっていた。
すでに豪州調査団はダーウィンへ上陸を果たし、簡単な湊を作ると、豪州大陸の東南へ進んだ。
さらに、インド洋調査団を率いる脇坂安治は昭南(現シンガポール)からアチェ王国沿いに北上。ベンガル湾に出た。そしてインド大陸東南に位置するヴィジャヤナガル王国のチェンナイ(マドラス)へ到達した。
史実では英国の東インド会社がナーヤカ(ヴィジャヤナガル王国の地方領主。大名や守護のような存在)から土地を取得。西暦1640年にセント・ジョージ要塞を築いている。
無論、広之の指示で最初からチェンナイを目指していた。土地のヤーナカやヴィジャヤナガル国王へ十分な贈答品を渡し、今後貿易を発展させ、チェンナイを手に入れるためだ。
ヴィジャヤナガル王国はヒンドゥー教国で、イスラム教国と激しく争っていた。西暦1649年に滅亡してしまうが、まだ半世紀以上先の話である。
脇坂安治は幕府から渡された資料で予めヴィジャヤナガル王国はヒンドゥー教の国であり、崇拝されている神々は日本でも馴染みがあることを承知していた。
シヴァ=大黒天、ヴィシュヌ=毘紐天、ブラフマー=梵天、インドラ=帝釈天、クベーラ=毘沙門天、ヤマ=焔魔天(閻魔)、スガンダ=韋駄天、ラクシュミ=吉祥天……。
資料の図面(地図)を見ると天竺(インド周辺)の広大さたるや身震いするほどだ。この地より遥か北方にはお釈迦様が悟りを開いたガヤー(ブッダガヤ)なる地もあるという。
安治は土地の領主、国王、商人たちから歓迎され食事を振る舞われたが、あまりに未知な味であり困惑した。
広之であれば喜んで食べるところだが、安治の場合はほぼ拷問に等しい。幕府の指南書には異国の地で出されたものは、必ず笑顔で食べるべし、と書かれている。
元々、羽柴家に仕えていたという訳ありの身なれば、役目を疎かには出来ない。
毎食、脂汗を滝の如く流しつつ満面の笑顔でスパイスが効きまくった煮物、小麦を練って焼いた物、餅のような何か……。飲み物も白くて腐ったように酢っぱい。
笑いながら涙を流す安治を見た現地人は喜んでいると勘違いし、さらにお替りを無限に持ってくる。
安治は内心、このたわけ者が叩き斬るぞ、などど思いつつ必死の形相で食べるほかない。
インド大陸南端からアラビア海を目指すべく船の修理など準備を整える安治であった。
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