第112話 台北の発展

 織田幕府は台湾の開拓を本格化させており、島の西側へ北から順に台北、台中、高雄と築き、続々と日本人を送り込んでいた。


 琉球からも多くの出稼ぎや移民が幕府の御用船へ乗り込み台湾にやって来る。琉球側は自国民の出国を禁じたが、ほとんど効果は無かった。


 御用船の多さに琉球側は抵抗も出来ず、黙って見過ごす他なかったのだ。


 また幕府御用船によってもたらされた砂糖きびと製糖技術は財政の柱となりつつあり、弱腰な対応を余儀なくされたのである。


 幕府御用船はシャムで砂糖きびを入手し、さらに製糖技術も持ち帰っていた。


 さらに寄港代として贈られる昆布、鰹節、薬、油、米、味噌󠄀、醤油なども欠かせない。


 すでに日本人町(大和人町)も作られ、常駐の幕府役人が治安を維持していた。


 琉球は第二尚氏王統の第7代尚寧国王の治世であったが、西暦1589年に即位して以来、未だ明王朝の冊封を受けておらず、懸案事項となっている。


 前国王の尚永王には男子が居らず、そのため娘壻の尚寧が後を継いだ。尚寧は王家分家(御殿)の長男であり、浦添を本拠とする家系であった。


 尚寧王は即位するや請封を行う。しかし福建で尚寧を琉球国王に封じる詔書を琉球国使者へ手渡す領封、もしくは冊封使を琉球国へ送る頒封の何れかで揉めていた。


 琉球は頒封を望んだが、明は領封で済ませたかった。頒封だと船の建造費や冊封使の派遣に膨大な費用を要する。


 明は海禁政策を緩和し福建省漳州月港から商船の海外渡航を許可制で認めていた。渡航先は指定されるが、琉球と日本は含まれていない。


 しかし織田幕府御用船は台湾や呂宋などで明商船と取引を行っている他、日本を拠点にしていた倭寇上がりの明国商船相手の密貿易も盛んだった。


 福建省の各地に密貿易拠点は複数あり、当然土地の役人へ十分な賄賂が贈られている。


 明も日本の銀や銅を入手する必要性と倭寇が鎮静化しており、半ば黙認状態である。結果的に琉球の必要性は薄い。


 そして台湾だが、琉球人にとどまらず対岸の福建省からも多くの移住者が流入しており、台北、台中、高雄の人口総数は13万人を超えつつあった。


 台湾では西部中心の開拓を行っており、東部山岳地帯や密林は当面深入りしない方針となっている。


 しかし、タイヤル族、アミ族、パイワン族、ブヌン族など規模の大きい部族とは、沈黙交易のような形式で交流をはかり、攻撃してきた場合は武力制圧していた。


 最低限の関係が構築出来た段階で、作物の栽培指導や農具を提供するなど、段階的な対応となっている。


 疫病対策の為、先住部族の領域へ日本人が立ち入る際は北海道で実践してきた方式を採用し、相応の配慮がなされていた。


 幕府南方開拓府の定めでは、確認、放置、交流、友好、敵対と分別。それぞれへの対応を管理している。

 

 西部の開拓では、台北、台中、高雄の各地域周辺において、続々と入植が行われていた。村を作ると、最初は麦、陸稲、蕎麦、キャッサバ、タロ芋、じゃが芋、さつま芋などを栽培する。


 最低限の自給を確保出来た段階で、水稲栽培へ着手。その上で、砂糖きび、茶(チャノキ)、とうもろこし、綿花などを栽培。


 とうもろこしは、加工する過程で胚芽、皮、グルテンミール、コーンスターチ(澱粉)、コーンスティープリカーなど作れる。


 胚芽は油、グルテンミールは飼料、コーンスティープリカーはとうもろこしを膨潤させる浸漬工程において溶出した浸漬液を分離。それを乳酸発酵させてから濃縮したもので、肥料となった。


 幕府南方開拓府にとっては年貢米を取る必要もなく、砂糖、油、茶、綿だけでも莫大な利益を生み出す。今春から煙草の葉も栽培する予定である。


 漁業においては台湾の南部から東部で水揚げされた鰹を鰹節にしていた。


 幸田広之は5年以内に50万人の人口を目標に掲げている。しかし福建省や広東省の沿岸部はおろか、内陸部でも台湾の事は話題となっており、密航者は後を絶たない。


 台湾対岸の漁民は密航業で荒稼ぎし、さながら蛇頭のようであった。明が対応しようにも地方官は賄賂で私服を肥やし、なかなか動こうとしない。


 いざ動こうとしたところで、台湾に入植している日本人の多くが元々武士だった武装農民であり、おびただしい船などが展開し、取り締まるのは困難となっている。


 幕府南方開拓府は明からの移民に対応する専門の部署を設けており、入植地の斡旋、家の提供、当面の食料支援、種子や農具の無償供与、銭の貸付など至れり尽くせりだった。


 村の規模に応じて耕作用の牛、豚、鶏なども無料で供与され、明からの入植者を歓喜させたのは言うまでもない。


 しかも治安が良く年貢も取られないのだから、夢のような話だ(最低限の賦役はある)。

 

 明の役人と違い幕府南方開拓府の役人は賄賂も取らず親切であり、数年後には十分な利益を得られそう、となれば殺到するのも当然。


 さらに台湾と隣接する呂宋の北部地域の部族と友好関係を築き拠点となりつつある。しかし当面はイスパニアへの配慮から、目立つような入植はせず、造船所を作るに留めていた。


 こうして台湾は着実に日本の領土として発展しつつあったのである。


 


 


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