第105話 春日局と幸田家②
幸田広之の屋敷は福(春日局)にとってまさに極楽であった。養われていた三条西家は三条家の分家の分家であり、摂家、清華家に次ぐ家格の大臣家。
しかし、それなりの家柄で書籍は沢山あった。家業は香道だが歴代当主は歌人や書家として名を馳せている。教養人として知られる細川藤孝(長岡幽斎)は現当主三条西公国の父実枝の高弟であり、歌学において古今伝授を受けていた。
古今伝受とは、古今和歌集の解釈を師から弟子に伝授するもので、藤孝は実枝から伝授された後、師の実子公国へ伝えている。
藤孝は以前、安土で謹慎中の羽柴秀吉に古今和歌集や源氏物語を差し入れとして送っているが、三条西家との関係を考えれば、決して嫌がらせとも言い切れない。
話を戻すと、公国にとって藤孝は師であった。また現在細川家の当主である忠興の正室は明智光秀の娘玉子(ガラシャ)。玉子の父光秀の家老斎藤利三であり、その正室の実家稲葉家は三条西家と姻戚関係にある。ちなみに玉子が忠興へ嫁いだ時、まだ福は誕生していない。
広之も歴史を知っているとはいえ万能ではなく、思いもよらないところで縁故関係や因縁が渦巻いてる。海外の事象や日本国内で広之の影響が遠い範囲では概ね史実通り。しかし、改変の作用により、寿命は史実より長い。
長秀はその筆頭だが公国も史実ではすでに亡くなっている。天下統一が史実より早く、天然痘対策を十分施し、栄養改善や初歩の医療が広まった成果なのかも知れない。
公家に関していうと戦乱の世で武家や寺社から横領された領地の一部が返還された他、書籍の執筆、催し物の主催(公家主催の歌会や茶会が現代における政治家の資金集めパーティと化しつつある)、商人の祝い事への出席で得られる謝礼等、戦国時代より格段懐具合は温まり、生活レベルも向上した。
公家の商売といえば講座みたいな会を開いており、各種教養方面の受講をするため各大名は銭を払い講師として招いている。アドバイザーのような形で契約している大名や武家もおり、公家の売り込みも盛んだ。
それらに貢献したのは幸田広之であり、また最近幸田家の翻訳により刊行(広之の運営する版元)された明国の李時珍執筆の本草綱目は爆発的な売れ方をしている。公家の間でも話題となっていた。
本草綱目の版本は西暦1596年の発行だが、すでに完成しており写本として出回っていたりする。資金力のある幸田家は銭に糸目を付けず明から重要な書籍を商人通して買い集めており、本草綱目も入手するや直ちに翻訳して、版を作成、世に出したのだ。
そのため、幸田家は公家からも一目置かれており、今回の福を養女として迎える話にも繋がった。福は子供ながら三条西家で一級の教養を施され身につけており、字の読み書きも達者である。学問的知識においては五徳や浅井三姉妹を凌駕しており、ある種の異質な家族といえた。
山程ある書籍に内心歓喜する福であったが、幸田家は豊かなだけあり、紙も沢山ある。紙をまとめて製本したノートさえあった。
その上、最近世の中に出回り始めたペン(大坂筆と呼ばれている。イスパニア商人に依頼して入手したペンを見本に製造)もある。中でも高価な金製のペン先さえあって自由に使わせてくれるのだ。
福はこれだけの環境に恵まれながら、あまり書籍や執筆へ関心無さ気な五徳や浅井二姉妹が不思議に思えて仕方ない。また福は食べる事よりも、何故そのようにするのか広之や哲普へ聞いたりする。明らかに酢や砂糖の使い方に特徴があったからだ。
五徳たちは、舌が肥えている反面、料理技法や殺菌、滅菌、灰汁抜きなどあまり気にしてない。鰹節が何故腐らないか、砂糖を多くするとどのような作用あるなどといったことを広之は事もなげに教えてくれる。
食べる時、十分咀嚼することで得られる体への影響など、いくら話を聞いても興味が尽きない。さらに福は広之へ源氏物語の事を聞くと、男だけや女だけの源氏物語があってもいいのではないか、と言われ雷に打たれたような気分だ。
男か女の何れかで、それぞれ男役と女役に分けるとか、攻め(タチ)と受け(ネコ)の概念を語る広之へ福は尊敬の眼差しで見つめた。
広之はまだ12歳の福にボーイズラブやガールズラブ(百合)を啓蒙し、闇堕ちさせようとしているが、福にとっては神の啓示に等しい。
後に福は雅号を使い覆面作家として宮廷女官の百合物や架空の武家による男色物で当代随一の人気作家となるのであった。
本名でも健康や食に関する作品を多数執筆。中でも偏食の子供への食事に対する著書は長くベストセラーとなったのである。
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