織田幕府黎明編

第52話 秀吉、北の彼方へ

 天正14年6月(西暦1586年)。奥羽では改易になった大名や国人の蜂起、あるいは検地へ不満を抱く農民の一揆があったものの全て鎮圧された。


 とりわけ最大規模となった九戸政実の乱に6万の兵を派遣。徹底した殲滅が行われ、陸奥・陸中の国人や農民を震え上がらせ、示威効果は十分。


 九戸領はじめ一揆を起こした農民は次男以下連行され蝦夷地の開拓へ送られたのである。その中に羽柴秀吉の姿もあった。秀吉は鎮圧出来ずに拡大させた責任として、約300名の兵で蝦夷地巡察へ向かったのだ。陸奥東部は弟秀長が留守役となり、農民の一揆に怯えながら懸命の検地。


「殿、そろそろ夏だというのに肌ざむうございますな。どこぞに陣屋でも構えないと野垂れ死に」


「市兵衛(福島正則)、縁起でもない事言うでない。五郎左殿(丹羽長秀)の書状では蝦夷の民は熊を恐れとるそうじゃ。ならば市兵衛や虎之助……。お前らの剛力で熊退治せえ。熊の首でも蝦夷の民へ見せればひれ伏すじゃろうて」


「流石は殿、ひれ伏した蝦夷の民から年貢を取りましょうぞ」


「よう言うた佐吉(石田三成)。それにしても、ねねは置いて来たしのう。五郎左様の書状によれば蝦夷は奥に行くほど蝦夷美人が居るとか。蝦夷のおなごは情が深く、大和の男児は好かれるそうじゃ。夜這いも歓迎されるらしいわい」


 こうして秀吉一行は数隻の船で松前の北方へ消えた。その頃、蝦夷地は北方省、開拓省、国土省、文部省、交通省、農水省、商務省、福祉省、工部省、軍務省に任命された者や奥羽各地から動員兵士で大変な賑わいを見せている。


 無数の船は松前の東にある箱館へ集結。函館に名称を変更し、蝦夷進出の拠点として整備を開始。迫る冬に備えて、陣屋や住居が作られた。


 近辺から蝦夷の酋長も集められ条約を締結。そして大量の品々が贈られ、比較的順調に蝦夷地開発が進む。幕府として、酋長たちは国人と同じよう扱う方針だ。


 測量については角倉了以の下、国土省や諸大名を動員し、全国規模となりつつある。丹波屋仁兵衛も幸田広之から示された銅山の位置を調査し、大規模な発掘を行う準備を整えていた。


 撰銭に関しては織田信長時代を暫定的に踏襲。織田幕府版朱印船貿易に備え、外洋船舶の試作も開始。同時にポルトガルの交易船へ日本人を乗り込ませ、航海術の指導等、着々と準備。


 さらに織田家内に学堂を創設し、家中の子弟6歳から18歳まで全て通うことを義務付けられた。また全国規模での街道整備も着々と進み、宿場、伝馬、一里塚なども設けられている。


 高速通信用に広之はカワラバトを捕まえ繁殖と訓練など、試行錯誤していた。活版印刷も実用化され、通達文書などが作られた。


 広之が全ての省を統括するため総裁という役職へ就任。現代でいえば内閣総理大臣である。正式に織田家の家老にもなって、幕府の序列は長秀に次ぐ3番目。


 流石に料理する時間は減った。しかし現在、五徳と竹子が2人揃って妊娠中であり、激務も苦にならない広之であった。


 



 



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