第51話 天下平定

 天正13年4月上旬(西暦1585年)。織田信孝は小田原城を包囲した。その数およそ15万。動員は基本的に四国や播磨以東。物資を積んだ大量の船は駿河湾に集結し、随時小田原へ輸送。


 滝川一益率いる関東勢5万は徳川家康が箱根を越える前に武蔵へ侵攻。鉢形城、松山城、岩槻城、江戸城は次々に陥落。大抵は包囲のうえ昼夜問わず鉄砲や火矢を撃ち込まれ戦意喪失し降伏するほかなかった。


 さらに丹羽長秀率いる北陸勢およそ5万も信濃と甲斐を経由して関東へ侵攻するや八王子城を落した。続いて相模に入り津久井城も落し、小田原城攻囲に加わったのである。


 小田原で信孝は関東勢の働きを称え、一益の示した石高以上の知行を示した。また一益へここ数年の労苦へ報いるべく、天下統一した後、伊勢一国(池田恒興の5万石を除く)に転封を約束。


 無論、この時一益は幕府の本拠地が江戸になる予定とは知る由もない。


 6月に入ると、すでに降伏していた北条氏規が小田原城へ赴き、朝廷からの綸旨で北条は朝敵になったことを告げた。これは今回同行している近衛前久の働きかけにより、実現したものである。


 室町幕府が無くなり、足利頼純(元小弓公方)、元将軍足利義昭、関東管領の系譜である上杉政繁(上条)などは全て織田幕府の手中。


 古河公方には世継ぎが居ない状態である。その上、朝敵となっては全く何の権威や裏付けもない。山賊と同じようなものだ。


 さらに最後通牒というべきか、朝廷ではなく幕府の依頼によって近衛前久が小田原城へ代理として訪れた。


 もし降伏に応じなければ北条および与した家臣の一族は全て同罪。氏、姓、苗字も剥奪されるだろう、などと脅かしまくった。


 その4日後、北条氏政は切腹。北条氏直は家康の嘆願で八丈島へ島流し。氏規は家康預かり。


 このまま征東軍は岩代に侵攻し、蘆名を滅ぼした。そして関東奥州仕置が出され、最上、大崎、葛西、黒川、佐竹は改取り潰し。佐竹は蘆名家当主亀王丸が家督相続の際、不当な介入をしたことを断罪された結果である。


 葛西、大崎、黒川、蘆名の領内には信孝の兵5万が留まることになった。関東には長秀が当分残留。


 伊豆、相模、武蔵、上総、下総、安房、上野、下野、但馬、陸前、蝦夷は織田信孝の領地。以下は次の通り。


蒲生氏郷  近江日野から岩代へ転封

伊達政宗  羽前一国

南部信直  陸中一国

森長可   越後一国

津軽為信  陸奥西部

徳川家康  羽後一部加増

安東愛季  羽後内減封

羽柴秀吉  但馬、庄内から九戸含む陸奥東部へ転封

蠣崎慶広  信孝の直臣となり松前の代官

上杉政繁  磐城

直江兼続  信孝の直臣となり羽後の一部


 なお里見義頼は保護していた足利頼純に鎌倉公方を再興させるため、鎌倉で勝手な振る舞いがあり取り潰しとした。足利頼純は許され、5千石ほどの知行が与えられ臣従。その他加増多数。相馬、岩城、宇都宮、結城は羽後に転封。


 信孝は再び関東に戻ると諸将へ天下普請を言い渡した。豊島郡の一部、足立郡の一部、葛飾郡の一部、多摩郡の一部、荏原郡に東京府を創設。江戸城を全面的に建て替えること。江戸に流れる利根川を東遷させ上総と常陸に横たわる香取の海へ繋げること。東海道と中山道を整備すること。さらに諸大名には一定程度の家臣を置くことも求めた。


 また諸大名に対し在大坂、在東京手当としてそれぞれ畿内近辺と東京近辺で知行国高のおよそ2分(2%)ほどの土地を与えたのである。


 関東や奥羽ではすぐさま検地が行われた。


 秋になり、信孝は上方へ帰還。正親町帝へ天下統一を報告した。


 その頃、羽柴秀吉は羽前一国を拝領した伊達政宗により、ようやく救い出され。雪溶けの時期になったら、助けに来るはずの蒲生氏郷は関東へ遠征してしまった。


 餓死者や凍死者が出るなか周辺の村から徴収した米で一命を繋ぎ、城を死守。何とか政宗に助けられた秀吉。しばらくして信孝の使者が来た。


 失態を痛烈に批判する内容ではあったが、これまでの織田家に対する功績と長秀による嘆願に免じ、陸奥北部と九戸への転封が命じられた。


 また秀吉の養子になっていた秀勝(信孝の兄弟)は但馬で留守を守っていたが、織田家に復帰。


 かくして秀吉一行は痩せ衰えた体で新たな領地へ赴いたのであった。


 しかし、秀吉が向かう前から九戸政実が南部に対して反乱を起こしており、現地へ向かう途中襲われ、多数の死傷者を出した。こうして、またもや最悪の状況で越冬を余儀なくされたのである。


 関東滞在中、征東軍に同行した角倉了以、茶屋四郎次郎、丹波屋仁兵衛は幸田広之と江戸近郊を見てまわった。了以は信孝たちが上方へ向かった後も江戸に残り測量を指揮。


 広之は玉川上水を確認し、江戸までの上水道設置の準備、並びに利根川東遷のための下調べなど奔走。滞在中、近衛前久と一緒に草津へ湯治にも行った。


 広之が大坂に戻ったのは12月に入ってからの事である。戻るなり幕府の組織作りに没頭。こうして織田幕府の組織案が信孝に認可されたのは12月下旬。


 当初、江戸幕府に近い形を模索していた。しかし織田家が圧倒的勢力となった結果、明治新政府以降の要素も取り入れた。また将軍家と幕府を分けることにより、直参・譜代・外様の隔てなく幕政参加を可能とする。


 織田信孝直臣の国持大名たちは独立した権限を有しながら、これまで通り織田将軍家に帰属。


 織田将軍家に家老や奉行は居る。幕府の場合は将軍の下に参院と公院を設けた。参院は織田将軍家家老と奉行の他、丹羽家、池田家、高山家、中川家、蒲生家、細川家、蜂谷家、徳川家、小早川家、毛利家、宇喜多家、島津家、伊達家で構成される。公院は公家たちだが、定員5名で関白により指名。


 この下に評議衆があり、織田将軍家の直臣20人の他、外様大名10人で構成。織田将軍家の指名による。


 役所は以下の通り。大蔵省、交通省、寺社省 文部省、工部省、外務省、司法省、治安省、関西省、関東省、北方省、南方省、開拓省、農水省、軍務省、商務省、福祉省、国土省。各省の責任者は長官。全て織田将軍家の指名で任命された。


 幕府の根幹は織田将軍家が握る。しかし分けることにより、江戸幕府の欠点を補い、それでいて織田将軍家の絶対的優位が揺るがないようにする。


 広之の構想としては少しでも近代化に向けて進みたいという願いがあった。



 


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