第45話 正二位内大臣宣下と近衛前久
3月中頃、信孝の重臣たちに竹子の懐妊が知らされた。重臣たちは安産祈願のため一斉に神社へ参拝。幸田広之は、少し前から竹子に兆候があることを五徳から聞いていた。
そのため酒を禁止にして、豆乳、豆腐、ひじき、切り干し大根、鶏卵、胡麻、蜆、鮭、鯖などを中心に広之自ら献立を組み、奥御殿の台所番へ指示することとなったが、早々に問題となる。
奥御殿の台所番が献立を勝手に替え、激怒した信孝は今後米粒ひとつも違えてはならぬ、と念を押した。無論、信孝にすれば、未来から来た広之を信頼している。身籠った女性に良い食べ物だと、広之が断言したなら何にもまして優先させたい。
さらに毎朝、体調の報告を受けて加減した。食欲のないときは米や豆乳の粥が中心となる。五徳や浅井三姉妹も毎日通った。五徳の話ではクリスマスの晩が怪しいという。それが本当なら日本初のクリスマスベイビーになってしまうのだろうか?
神に祈りなさい、信じる者は救われます、などとバテレンが歓喜する姿を思い浮かべ頭抱える広之であった。大体、天正11年12月25日はユリウス暦やグレゴリオ暦だろうと約2ヶ月ほど進んでいる(1582年からグレゴリオ暦)。なので日付上は本来まったく関係ないが……。
そんな折、朝廷から正二位内大臣への宣下があった。程なくして大坂に、近衛前久が訪れる。本能寺の変において明智の軍勢を自身の屋敷へ招き入れた疑いで、一時は身を隠した人物だ。
前久は藤原氏嫡流であり、五摂家筆頭という名門の生まれながら、関東や九州など各地を流浪。教養の高さでも知られる。
信孝のご機嫌伺いが主な理由なのは間違いない。しかし実際は将軍宣下に向けて島津との和睦や関東について感触を探りに来たのであろう。
信孝は適当にあしらいつつ幕府を開いたさいの協力を社交辞令として求めた。そして広之に饗応を託したのである。
「これは左衛門殿、お主の名は都でも有名にてまろも嬉しいでおじゃる」(※柳生一族の陰謀風であり、公家の正確な言葉遣いではありません)
「准三宮様におかれましては、わざわざ我が屋敷にお越し頂き、誠にかたじけなく存じ上げます。末代までの誉れに……」
「いやいや、そのような堅苦しい挨拶は要らぬ。龍山でよいぞよ龍山でな」
それにしても発音は“りゅうざん”であり流産を想起する。信孝にも大きい声で龍山を連呼したのか不安を覚える広之であった。
「それでは、お言葉に甘え龍山様……。いろいろ大変でしたな」
「然様でおじゃる。面目もない。誰ぞの讒言か知らぬが、全く見に覚えも無きことでおじゃれば『悲しきや〜この身に知らぬ〜覚えなし〜』と嘆き涙したもの。亡き尾張公は我が兄弟も同然。誠に惜しい人物でおじゃった。
この後、1時間ばかり、前久のリサイタルを聞き続けるしかなかった。
「ところでのぅ、左衛門殿。九州はいかがされる……。まろも尾張公の時より骨を折ってきたものじゃ。島津は元々我が家門の家人。近衛家領地である島津荘の下司。今でも何かとまろを頼っておじゃれば『薩摩人〜遠く西海〜いにしえの』」
ここから、九州の話、そして上杉謙信と一緒に坂東の地を駆け巡った日々の武勇談。それも、かなり盛られている。将軍宣下される前に島津が上洛しない場合は征伐の対象となってもおかしくないことを何とか伝えた。
関東へ行くときは同行して草津の湯に浸かりたいなどと言ってたが、やはり行動力は凄い。公家の領域を超えている。近衛家で所蔵している書物も必要なのがあれば写経するとの申し出も受けた。
「それでは龍山様、お酒でもいかがでしょうか」
「ほう、いよいよ天下に名高い左衛門殿の馳走給わるとは『嬉しきや〜山海の美味〜如何ばかり』」
軽く無視しながら、広之が指示を出すと室女中が酒や料理を持ってきた。鳥貝のぬた、皮付き筍の焼きもの、若竹煮、蛤の吸い物、鯛の真薯蒸し葛餡掛け、胡麻豆腐。料理が出されると広之は一旦下がり別の部屋で着替えるため退出。
その間、五徳と奥取次用人が酌など相手をしていた。前久は信長の面影がどうしたとか言いつつ涙ながらに謡っている。
広之が戻ってくると、囲炉裏に台がいくつか置かれ、鍋がのせられていた。そこへ上等な胡麻油と菜種油をブレンドしたものが入れられ加熱。
木箱に沢山の魚や野菜が並べられていた。海老、イカ、メバル、鯛、鯵、蛤、ふきのとう、たらの芽、コシアブラ、椎茸。
「天ぷらというもので龍山様のお口に合えばよろしいのですが」
「ほう……これを揚げるのでおじゃるな。なかなか粋な趣向」
まずは海老のかき揚げから。天つゆの他、抹茶塩、山椒塩、柚子塩などが置かれている。
「これは美味かな。衣の歯触りと中の火加減、見事なものでおじゃる」
続けて椎茸の海老すり身、フキノトウ、たらの芽、コシアブラ。
「春がまろの口の中で踊り出すようでごじゃるなぁ」
さらに蛤、鯵、メバル、鯛など次々に揚げる。とにかく謡い出す前に絶え間なく食べさせるほかない。
そして最後は豆大福の天ぷらを出した。中は抹茶餡である。家臣に3人居る僧侶の中でもっとも年長の者が茶人の如く抹茶を入れて差し出す。豆大福の天ぷらを食べた前久は流石に驚いて謡うことも忘れていた。
近いうちにまた来ると告げ、上機嫌で広之の屋敷を後にする前久であった。
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