第39話 上様のメリークリスマス

 今日はクリスマスの日もといナタラの日だ。数日前より棗を蜂蜜入りのシロップに漬けたり、先程から酒種酵母でパン生地を発酵させている。


 種無しパンのつもりだったが、武家にとって縁起悪いからやめた。この時代の人間は縁起や迷信とか気にするし。ワインも信孝の家臣でキリシタンの者が居て、イエズス会から購入した。


 今回のナタラは他の文化を知るためのよい試金石になるかも知れない。食育みたいなものだろう。そもそも武士がなぜキリスト教に引き寄せられるだろうか?

 

 死生観ということについて武士はいつ死んでもおかしくない。年に何度かいくさがあり、その都度死ぬ可能性がある。自身が死ななくても相手を殺したりするわけで、仏教的な道徳観とそぐわない。


 そもそも仏僧やその信徒を敵として戦う場合さえある。相手は死ねば極楽浄土に行けると喜んで向かって来たりするのだから、なかなか正気を保つのも大変だ。


 いわゆるキリシタン大名は南蛮貿易という実利面で語られる事が多い。しかしキリスト教に殉じた高山重友(右近)のような存在も居る。


 重友は豊臣秀吉のバテレン追放令、徳川家康のキリシタン国外追放令にも屈せず、すべてを捨ててマニラで死没した。貿易の実利だけでは説明がつかない。


 神に背かなければ、許されるといった宣教師の教えは仏教より魅力的だったのかも知れない。罪を生業とした場合、仏教的な価値観では救われ難く、蓄積される。

 

 全ての人は生まれながらにして罪を背負ってる、と言われた場合、悪いのは自分だけでない、と安心出来たのかも知れない。


 平安時代以降、中央集権による統治システムが迷走する。それが戦国時代末期になり、ようやく修復される最後の段階となる。


 しかし武家、寺社、自治都市というのは民衆と相応に向き合っていたが、朝廷は直接的にアプローチする術をほぼ喪失。朝廷は金や権力は無いが権威により武家を管理・監視する一種の安全装置として生存。


 奈良時代から仏教は民衆へ直接的な救済・啓蒙活動を行ってきた。精神面から、農業、学門、医療、建築など多方面に渡り、様々な影響力を行使。


 結果、各地で寺を中心にした自治が強くなる。朝廷や貴族は取るばかりで民衆にとって恩恵を感じにくい。形態は違うが西洋も大体同じ流れに思える。そのような統治形態が乱れ、再構築される最終局面でキリスト教は上陸した。


 日本は一神教でなく八百万の神やおろずのかみが集いし国。天之御中主、天照大神、素戔鳴尊、釈迦、大日如来、帝釈天……。結果、デウス(ゼウス)、イエス、マリアとかも受け入れられる土壌があったといえる。


 ザビエルが来日した当初、デウスを大日と訳した。彼が来日するきっかけとなった従者のヤジロウがそういうイメージだった結果である。


 日本人的には大きな日と訳したくなるのはよく分かる。天照大神なども日本的と思えるわけで、偉大なる神を表現するとそうなってしまうのだろう。その結果、デウスやキリストは仏教と勘違いされてしまう。 


 勘違いされていることを認識したイエズス会は日本語の呼称考えたが、うまく行かなかったらしい。高天原の神々、インド系の神々、稲荷信仰、龍蛇信仰、アニミズムとか混沌としており、一神教とは異質の世界。


 上様や主上の上をカミと呼び天にも通じる。神=シンの場合でも心、信、親、真、審。同音でもっともらしい字が並ぶ。漢字のイメージは強力なので博学なイエズス会士をもってしても苦悩したはず。


 神、上、天、帝、王、皇とか並べて見てもも、キリスト教を感じで具現化するのは難しいだろう。マリアでさえ摩利支天と似ているし、ややもすれば観音菩薩のようなイメージをもたれる。


 天狗も聖書のケルビムとそっくりである。仔牛のような蹄、天使のような羽、獅子や鷲の頭とか。なので最初はイメージの混同を嫌ってか悪魔ということにしようとしたけど失敗。天使の扱いになったらしい。


 カラス天狗の絵見たら羽生えており天使に見える。ケルビムの描写と似ているからイエズス会士も驚いたはず。


 イエズス会編纂の日葡辞書にも天狗は出てくる。そもそも宣教師たちも最初は天狗呼ばわりされて差別に困惑した。天狗が何者か調べたら絵を見て驚いたことだろう。天狗をケルビムと切り離すため悪魔化しようと試みたのかも知れない。


 江戸時代に入り蘭学が発展すると天使は光音天人と訳され、次第に天狗となった。天使の中でもケルビムだと認識されてたようで、イエズス会士と日本人蘭学者の差異なのだろう。


 そもそも西洋でもルネサンス期に子供の天使が流行ったり、時代ごとに変遷している。江戸時代の蘭学者は漢学、仏教(ヒンドゥー教やバラモン教含む)、古事記、民俗学的な知識、キリスト教…とか、そういう膨大な知識を土台にアプローチしている。


 天使に対照させるものを光音天にするのも彗眼だが、さらに人を付けて光音天人にし、より正確にしているのは驚きを禁じ得ない。


 ヒンドゥー教にガルダという神様居て(タイの国章)、これが天狗におけるビジュアルのモチーフっぽい気もする


 そんなことを考えているうち信孝、竹子、三法師、五徳、茶々、初、江たちがやってきた。


 信孝はしてやったり、みたいな顔だが、他の者はどことなく浮かない表情である。バテレンは牛を食うとか、そういう話を聞いて、何を食わされるのか流石に怖気づいているのだろう。


 酒種パン、干した棗の糖蜜漬け、塩鯖の胡椒焼、蕪フライ、大根フライ、豆ペースト、豆スープ。酒種パンはパンというよりパンケーキに近い。イエスもびっくりだろう。牛乳の代わりに豆乳を使っている。卵黄と油で作る“たまもと”に蜂蜜を加えたソースで食べてもらうつもりだ。


 棗はシロップ漬けにして戻した。塩鯖は貴重な胡椒で焼いただけ。蕪と大根は半日干したものを油で素揚げにして塩を振った。


 豆ペーストは大豆を戻し、茹でたあと皮を取り除き、すり鉢ですり潰した。胡麻、油、塩を加えてある。ようするにイスラエル料理でおなじみのフムスだ。


 豆スープは数種類の豆に蕎麦の実入れたもので、味付けは塩のみ。それらを説明して「どうぞ、お召し上がりくださいませ」などといったが誰も食わない。


「左衛門、これはもしやするとカステーラではないのか」


「流石上様、カステーラに近いものです。黄色いものを掛けてお食べくだされ」


「ほう柔らかいのぉ。どれ……何という美味。これはカステーラより良い。さあ三法師や竹子も食べてみよ」


「これは饅頭より、美味なこと。香りも申し分なし」


 三法師も2人に遅れ、食べ始めるや魂を抜かれたように食べまくる。続いて他の4人も食べるが、皆笑顔だ。


 さらに信孝は蕪と大根を食べる。どう見ても安全牌。自分から言い出した割には慎重過ぎだろ。弌剣平天下もとい弌剣平食下とは行かないのか。ここは主君として根性を見せてほしい。


「五徳殿、そちらの潰した豆に蕪や大根付けて召し上がると美味ですぞ」 


「左衛門殿がそう申すなら……。う、これは不覚にも合います」


 それを聞いて安心した他の者も一斉に真似する。これでは初めてフランス料理店に行った家族みたいだ。ときおりワイン飲んでるけど現代からすればほぼビネガーであり、まともに飲めた代物じゃない。


 味は大事だが、この場合は気分優先だ。そして鯖や豆スープと進み三法師以外完食。全員健康診断を終わったあとのような感じだ。

 

 この後、普通の酒や塩魚に鮭とば持ってこいだの言われ、いつもの酒宴となった。

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