第30話 戦国乱世と貨幣

 現在、秀吉は安土城で限りなく蟄居に近い謹慎となっており、黒田孝高(官兵衛)や蜂須賀正勝(小六)の抜けた家臣団は但馬の羽柴秀長が束ねていた。


 大坂より与力が送られ動向は常に監視されている。そのうえ史実で活躍する優秀な家臣の引き抜きが行わていた。庄内に行きたい者は少ない。信孝や孝之へ従えるなら1万石以上の提示。


 小西行長、堀尾吉晴、神子田正治、増田長盛、脇坂安治、加藤光泰、戸田勝隆、尾藤知宣などは、すでに応じて大坂へ入った。大坂では“羽柴逐電ちくでん守”などと人々に揶揄され笑い者になっている。


 羽柴筑前守が足利義昭を奉じて謀反に及んだという話は全国の大名や有力国人へ伝わった。義昭の高野山配流は織田信孝の征夷大将軍もいよいよ近いと思わせるに十分で、各地よりの使者が続々と大坂に来訪。


 毛利、徳川、北条、島津、大友、龍造寺、伊達、大崎、葛西、蘆名、秋田、津軽、南部、宇都宮、佐竹、小田、結城、里見などの使者が訪れ、それぞれ歓待された。

 

 しかし唯一北条だけは贈答の品ごと送り返されるという屈辱的な対応を受けたのである。誰の目にも信孝が将軍宣下された暁には幕府や朝廷に仇なす東夷として討伐されかねない。


 事態を危惧した北条氏政は北条氏規うじのりを徳川家康の下へ送った。氏規はかつて駿府で人質生活をしており、その時以来家康と交流がある。いわば旧知の仲だ。


 家康の対応は武田勝頼と同じ憂き目に遭いたくなければ早急な和睦が肝要である旨、諭した。厩橋城の滝川一益に頭下げて相談の使者を送ったが、伊豆一国安堵なら信孝へ話繋ぐという問題外の助言。


 一益の下へ関東の諸大名や有力国人から北条を攻めて欲しいという使者が年中訪れていた。今年に入ってから佐竹や里見による北条への挑発は限度を超えており、北条の勢力は揺らいでいるのが実情と言える。


 しかし一益も窮地に立たされているのは同じ。羽柴の次は自身かも知れない。そう思わざるを得ない流れだ。


 現在受けている指示は北条の家臣や領内を調べつつ反北条方による暴発は自重させよ、というもの。ただし、出来る限り反北条勢を煽ることが求められた。これでは目立った活躍も出来ず、行く末を案ずるほかない。


 上野国人衆の間では一益が信孝体制において重用されていない、と見る向きもある。織田による天下統一と幕府樹立が目前であり、何とか武功を立てることを願うのは当然のこと。


 その頃、大坂では幸田広之が切米扶持を2万石加増され4万石となっていた。軍役免除はこれまで通り。他の家臣は軍役に四苦八苦する中、破格の待遇と言える。しかし仕事量は増えており、優秀な家臣集めに奔走。


 そうはいってもいくさで活躍することは求められず、元の家中で勘定方だった者や学問に秀でた者が高禄で召し抱えられていた。


 目下の課題は幕府を樹立したあとの通貨への対策である。この時代、銅銭硬貨は大別すると明国の永楽通宝と京銭きんせんが流通していた。


 まず永楽通宝は明朝第3代皇帝永楽帝の永楽9年より鋳造され始めた銅貨で生産量が膨大。室町時代の日明貿易や倭寇によって大量に日本へもたらされた。


 しかし、明国では銅貨不足となり、結果南京あたりで質の悪い粗悪な私鋳銅貨が大量に出回る。中には日本で作られたものさえあり、いわゆる鐚銭びたせんだ。


 びた一文は金が無いことの代名詞にもなっており、永楽通宝や宣徳通宝に比べると価値は低い。他にも室町期の日本では宋銭や元銭も流通していた。


 結果、撰銭令などが出される。効果は弱く、織田信長は撰銭をした者へ厳罰、京銭と良銭の交換レート制定。注意しなければならないのは撰銭令が撰銭を禁ずるものでなく、むしろ逆だという事……。


 政情不安定な国でインフレにより自国通貨が紙屑と化し、米ドルが流通するのと似ている。恐らく堺などに課した矢銭なども大量の京銭、それも破銭われせん欠銭かけせんが混ざっており、信長でさえ苦悩したのだろう。

 

 このような鐚銭などの悪銭も何とか使いたいと言うのが撰銭令である。ようするに権力側が価値の低い通貨を民衆へ押し付けることを意図しているわけで、抵抗されて当然。


 戦国時代を舞台にした転生や転移系小説では撰銭令の背景を知らず、単なる大名が南蛮吹普及前に私鋳銅貨を大量生産するとか、そんな話も出てくる。


 知行1千貫とか言うが、それだけ貨幣経済が発展していた。しかし明国の海禁政策や倭寇の取り締まりなどにより銅貨が足りなくなったのである。


 現代で言えばマネーサプライの減少や撰銭によりデフレが発生したはず。結果、米による石高制にせざるを得なくなった。つまり電子決済から現金決済に戻すような不便な状態である。


 その後、徳川の時代になり朱印船貿易が行われる。日本の主力輸出品は銅だ。大坂屋や住友(泉屋)などにより各地の銅山が開発された。


 当時世界的にも最先端の南蛮吹を活用しており、銅の生産量で日本が世界一だったと言われている。余談だが、大阪は米で栄えたイメージが強い。それと並ぶのは銅であった。なにしろ天下の住友を築いたのは銅なのだ。


 日本の貿易といえば金銀の垂れ流しというイメージである。しかし朱印船貿易の頃には銅が圧倒。その結果、徳川幕府の通貨政策は第2代将軍徳川秀忠時に良貨でなく悪貨を前提とする発想の逆転が行われた。


 むしろ悪貨を標準銅貨(幕府領で)にした。これは上方で京銭、東国では永楽通宝が使われている事を前提にした一種の撰銭と言える。続いて第3代将軍徳川家光時に寛永通宝が発行された。


 これは平安時代以来約700年振りの公式銅貨だ。銅の生産力が増したこと、朱印船貿易における銅貨の海外流出、参勤交代よる銅貨不足など、複合的な結果だと思われる。


 国内で絹や綿の生産して、海外への金銀流出防げばよいという単純な話で収まらない。やはり秀忠と同じ事をして、いかに早く国産銅貨へ移行できるか。


 その前に南蛮吹と銅鉱脈……。阿仁、足尾、別子などの主要銅山を抑え、開発させた後でないと無理である。先人の苦労を噛み締めながら取り組む幸田広之であった。



✾数ある作品の中からお読み頂き有り難うございます

宜しければ「★で称える」を押してくだされ!

執筆する上で励みになりますのじゃ🙏

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る