第27話 大坂前蕎麦
幸田広之は1人で蕎麦を打っていた。夏場に収穫された蕎麦であり、風味は秋物に比べて弱いが悪くない。
現代で暮らしていたときは珈琲豆を焙煎したり、蕎麦打ちする知り合いとか理解出来なかった。しかし、この時代無いものを食いたければ自分で作るだけのこと。
長野県木曽地方の臨済宗
この記録では1574年、定勝寺の修理工事における落成祝いのさい振る舞われたという。ただし、どのようなものだったかは定かでない。
つなぎを入れるまでは蒸しており、現代でも蒸した蕎麦は僅かに残っている。いわゆる掛け蕎麦のほうが新しいようだ。
1849年に発行された“日本二千年
大阪市西区新町に「ここに砂場ありき」という碑文がある。大坂城築城のさい新町あたりに砂を置いたので工事関係者の出入りが多かったという。
ちなみに大阪うどんのルーツも大坂城築城時の新町だと言われており、実際のところは定かでない。
広之は秋蕎麦を食べるときに備え“かえし”をすでに作っている。醤油、砂糖、味醂を火にかけたもので、壷に入れて土に埋め保存していた。
蕎麦打ちは結構な労力だから哲普に教えている。これまで小麦粉を2割入れた二八蕎麦を作っていた。今日は布海苔が入手出来たので、これをつなぎに使う。
新潟のへぎ蕎麦や秋田県雄勝郡羽後町のいわゆる
つなぎの布海苔と蕎麦粉(挽きぐるみ)をどれくらいの比率にするか数パターン試してようやく完成した。
椀に茹でて洗った麺を入れる。そこへ出汁を作り、かえしを加え冷ました汁を入れて完成。さっそく食べると実にうまい。
お初や哲普など数人呼び味見させたが食感に驚いている。
「殿、あの海藻でこのような喉越しに……」
「ああ、そうじゃ。これにな、魚や茄子の天ぷら、もしくは白扇揚げ入れてもうまいぞ。昼に客人を招き、軽く食べるときには使えるな」
「いま新町あたりにうどんの屋台が沢山賑わっとります。どれも殿の考案された味噌うどん、鍋焼きうどん、鴨葱うどん、つけ鴨うどんに遠く敵いませぬ。この蕎麦切りも普通の者が食ったら腰抜かすはず……」
「病人や子供に食べさせるものを考えておるのだが、蕎麦は面白い。粉を豆乳と一緒に煮詰め、それに蕎麦の実や豆を入れたらよいかも知れぬぞ。お初、哲普、暇なとき試してみてくれ」
そう言うと広之は別の間に行き、新しく雇い入れた家臣と織田家領内の詳細な地図を作る打ち合わせに出た。伊能忠敬に負けない地図を何とか作りたい。
料理、保健、地図作成、産物の調査、法令作りが主な仕事になりつつある。そのため当代一流の学者も広之の屋敷へ訪れるようになった。
寄り合いなどで料理を出すことも多く評判になりつつあって、他家の料理人が訪ねて来ることも少なくない。
大抵は自流派の技を披露し、勝ち誇るような輩が多く、学ぶ姿勢は疑問。特に有職料理(公家などの接待料理)などはその傾向が強く、辟易とする。
千利休と津田宗及が招待してほしいと言っているらしい。
それはそうと、最近ますます信孝と竹子が仲良くなってる様子で喜ばしい。しかし戦国の世はやはり厳しい。嫡子以外は万一の際における代理。信孝のように他家へ養子か、上杉謙信や今川義元の如く寺へ出されるのが普通。
昔の女性は初潮迎えたら子供を産みまくると勘違いしている人も多い。しかし体が十分に出来上がってない状態で妊娠すれば最悪の事態だってありえる。
なにしろ現代みたいに帝王切開など無理。妊娠が可能であっても安全を保証するはずもない。そのへんを理解せず、初潮から閉経まで子供を産みまくるみたいな発想は驚く。
戦国時代であっても家同士の都合により結婚早かろうと、そんな簡単に子供は作らない。前田利家など例外と言える。
流産もあれば幼児死亡率も高い。江戸初期の話になるが、春日局は病弱な家光へ健康そうな普通の女性を宛てがい、子孫を残させた。
いずれにせよ現代人の知見で三法師を成人させ、竹子の健康状態へ留意する必要がある。
出来る限り早く栄養や衛生について記した書物を完成させ織田家中へ啓蒙したい。
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