第21話 蒲生氏郷の出羽遠征
夏とあっては、流石の北国でも暑い。丹羽長秀は吹き出す汗を抑えつつ加賀・金沢城の改修指示をしていた。
柴田勝家の甥である佐久間盛政が本願寺の尾山御坊を落とし、それを金沢城と改称。以来、加賀の拠点となっており、大幅な改修を施したうえ、自身の居城にするためだ。
春日山城の蒲生氏郷は国人に手間を焼いてる。特に揚北衆が検地へ抵抗しており、何かと難しい。信孝は検地に反対したり、一揆を煽動すべきは一族死罪という姿勢である。
検地は統治の根幹と位置づけており妨害や隠田等、厳しい対応で望む方針を示していた。
長秀は出羽庄内・大宝寺義興征伐のため氏郷に、およそ3万の兵で出兵させることにした。揚北衆にも厳しい軍役を出したが、明白な威嚇行為であり、逆らえばそのまま攻めるつもりである。
こうして氏郷は大軍で庄内へ侵入するや瞬く間に大宝寺や周辺を降伏させた。さらに最上氏とは一族である清水氏を巡り対立。
山形城まで進撃して包囲。最上
これに恐怖した伊達、小野寺、由利、秋田、大崎などは恭順の意を示してきた。蒲生などと聞いたこともないような武将であり、今回織田家の重臣である丹羽長秀さえ出て来ない。奥羽の大名は底知れぬ織田家の強大さを痛感。
出羽への遠征を終えた蒲生氏郷は帰路、越後に入るや揚北衆に通達した。近いうち蘆名も倍以上の軍勢で攻めるが、それまでに検地を終えてなければ取り潰す、と。
一方で北条も急速に勢力を整えつつある織田への対応に苦慮していた。徳川家康が三河、遠江、駿河に加え、甲斐や南信濃を領有したと言う。もし上野、甲斐、駿河の三方から同時に侵攻されると厄介である。
最近は関東の諸将が滝川一益へ
征夷大将軍にでも就任し、朝廷から追討令を出されると離反する国人が出るだろう。さらに出羽へ出兵したという。
日々状況は厳しくなるばかり。とりあえず守りを固めつつ様子見という消極的な方針で対応することになった。
大坂では信孝が紀伊の鷺ノ森本願寺へ赴いていた。石山本願寺を退去した本願寺門主顕如と会うためである。
まず石山本願寺跡を大幅に改修していることについての報告。柴田勝家との戦いにおいて協力してくれた謝辞。
さらに大坂へ本願寺を再建するため協力するという申し出。そして義絶している教如への赦免嘆願。顕如は大坂への帰還と教如の赦免嘆願を承諾した。
信孝は大坂へ戻ると連日広之と今後の政権構想について話し合いを重ねた。
広之は平氏政権、鎌倉幕府、室町幕府、豊臣政権、徳川幕府ちついてそれぞれの成立経緯、メリット、デメリットなどを説明し、やはり徳川幕府を参考にすべきだと推奨する。
日本統一(当時ヒノモトよりニホンやニッポンという呼び方が定着していたのはイエズス会編纂の日葡辞書でも明らか)の暁には全国規模の検知を成立させ土地の権利確定が必須と説いた。
領内の支配といっても完全な検地は言うほど簡単なはずもない。
そうはいっても農民の負担が増えるからという単純な話ではなく、土地の所有権を明らかにすれば利害絡む。
元は荘園とかあったわけで、足利や島津も荘園由来の名前だったりする。
戦国時代において荘園が消滅していたかといえば形骸化しつつも皆無でない。例えば島津荘は近衛家の荘園であり、島津氏は地頭だった。
いったん天下が乱れるとやはり武力を有する方が圧倒的に強い。それでも関白の近衛前久などは薩摩へ下向したり、島津と相応の付き合いをしている。
それらをすべて清算して土地所有権を確定する。条件として国人の存在を解決する必要があるため国替えも辞さない。
守護なども完全に廃止する。
さらに現代で言うところの北海道、千島列島、樺太の領有ならびに中国や東南アジアとの通商など海外進出も広之は持論を述べた。
織田幕府への準備は着々と進んでいったのである。
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