天下統一編

第20話 将軍足利義昭

 織田信孝や幸田広之が大坂に戻ると石山本願寺跡(ここを小規模な改修施し便宜的に大坂城と呼んでいる)の本格的な改築が開始された。


 広之が持ち込んだ現代の歴史年表地図(写真や図解豊富)と戦国時代の書籍を参考にしている。築城の縄張に精通する長秀が絶賛したのは熊本城と名古屋城だった。


 どちらも長秀いわく、十分な兵、矢弾、兵糧があれば力押しで落とすのは無理であり、平地の城として最高の出来栄え、と評するほどである。


 これらの特徴を併せ持った城にすることで決した。そのため石垣職人に熊本城レベルの算木積みを研究させていたが、ようやく技術的な問題をクリア出来たところだ。


 最大の問題は1596年に発生する(はず)慶長大地震への対策だった。城壁の強度が入念に検討されたほか、天守は予め小さく堅固に設計させている。


 中之島や船場の開発、東横堀川から道頓堀川を開削するなど、大坂の開発も全面的に行う。さらに大坂と京の都を最短で結ぶ京街道も整備。いずれも史実では1596年から1615年あたりの話だ。


 現代に至る大坂(大阪)が本格的に開発されたのは豊臣以降の話である。大坂城にしても豊臣時代の城壁は地下に埋まっており、再現した天守閣含め徳川時代のもの。


 まずは大坂の整備開発でノウハウを蓄積し、いずれ行うであろう江戸開発への試金石とするつもりである。


 信孝たちは大坂城南側に増設したエリアにある仮の屋敷へ移っていた。仮の屋敷は四国征伐中から建築を進めており、すでに住める状態となっている。


 新しい屋敷に移った広之は医学の専門知識はないので、衛生や栄養について対策を考えていた。この時代、とにかく病気が蔓延している。


 とりわけ懸念しているのは丹羽長秀の寿命だ。史実では1585年、つまり今から2年後には亡くなる。寄生虫が原因と言われており、現在のところ兆候はない。


 対策としては、人糞などによる肥料で作った野菜を生で食さないようにさせている。生で食えるのは魚肥、草肥、小麦ふすまを撒いた畑で取れたものだけ。それ以外は必ず加熱。このくらいしか出来ない。


 栄養面では飲む点滴と言われる甘酒なども飲むように勧めている。


 蚊については、平安時代あたりから蚊遣り火と言われるものがある。カヤの木、よもぎの葉、杉や松の青葉などを燃やして煙を炊くというものだ。もっとも効果的なのは蚊帳かやである。


 清潔にするのも基本。油と木灰汁で石鹸も作った。春に採取した沈丁花じんちょうげを香り付けに加えている。これは贈り物にも喜ばれており、茶々も喜んで使っていた。

 

 女性受けを考慮し、現在蜂蜜や蘆薈ろかい(アロエ)配合など野心作の開発中である。


 あれこれ考えているとき、特注していた土鍋が届いた。翌日、哲普てっしん(久米田寺の小坊主)を呼び、うどんを打たせる。お初には穴子を捌かせ、広之は温泉卵を作った。


 煮干しと鰹節で出汁を取り、そこへ干し椎茸の戻し汁も加える。味付けは紀州湯浅の醤油、徳川家康から贈られた八丁味噌、そして味醂で整えた。ここへ麺を投入。さらに下茹でした干し椎茸、穴子の天ぷら、温玉、難波葱……。


 こうして鍋焼味噌うどんが完成した。まさに感動である。もし、これがきっかけで味噌うどんが大坂名物になったらどうしよう、と考える広之だった。


 そのころ大坂では信孝の征夷大将軍就任を巡り問題が発生していた。就任の条件として備後・鞆の足利義昭自ら辞任すること、というのが朝廷の要望であったのである。


 小早川隆景は織田家家臣に列したが、毛利家との両属状態である。織田、毛利の双方から隆景が義昭との交渉を一任されていた。もはや毛利家と小早川家にとって鞆幕府は無用の長物。


 しかし義昭は隆景の説得にも応じようとせず、大和の譲渡および信孝へ臣下として人質を出すよう要求してきた。


 この件について信孝は毛利家の安国寺恵瓊えけいから大坂で報告を受け、公卿たちとの交渉へ入ったのである。


 朝廷から然るべき地位を与え、義昭自身は京の都に在住のうえ室町殿として信孝も敬意払い、なおかつ嫡子(12歳)へ5万石相当の知行ということでまとまった。 


 あとは朝廷内で調整するので少し時間か必要とのこと。もし義昭が蹴った場合は朝廷が将軍職を剥奪することを確約。話はいったん保留となった。


 朝廷としても、出来れば信孝が九州、関東、奥羽を征伐前に将軍となり、御威光で天下統一する形を描いている。


 朝廷の意図を感じ取った信孝はまず九州を先にして、征夷大将軍へ就任し、東国は最後と決意。こうして根回しは進められた。


 義昭についてはもう一つ大きな問題があった。信長存命時、毛利を上洛させようと画策していたが、その妨げさまたげは豊後の大友であった。


 毛利の背後を脅かす大友を“六ヶ国之凶徒”と断罪し、龍造寺や長宗我部など周辺大名へ工作を行っていた。

 

 六ヶ国守護という権威を喪失した大友は苦境に陥り、信長へ接近する。信長は大友に対して、六ヶ国に加えて、周防と長門の領有を許可した。


 信孝は毛利と大友へ敵対しないよう勧告し、龍造寺にも警告する使者を送ったが、感触は薄く、応じそうにもない。


 かくして水面下で着々と動いていた。

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