第15話 四国征伐②

 織田信孝が淡路島の福良まで来たころ、勝瑞城と木津城を取り囲む長宗我部軍が吉野川を西方面へ移動し始めていた。


 上陸した織田信孝軍が周辺の城へ迫ると、いずれも開城。信孝が上陸すると勝端城主の十河存保そごうまさやすは改めて臣従を申し入れた。


 長宗我部元親から恭順するので和議をしたいとの申し出があったが信孝は拒絶。ようするに自分は土佐へ帰るから、そちらも兵を退け、という意味合いである。


 上陸後2日間ほど勝端城や木津城への兵糧や物資搬入するのに時間がかかった。一方、讃岐へ上陸した羽柴軍と宇喜多軍は香西佳清こうざいよしきよを降伏させ、続いて讃岐西部へ進撃し、香川氏の天霧てむり城を落とした。


 香川氏は長宗我部家から養子(香川親和親和ちかかず)を迎えていたが、羽柴と宇喜多の大軍が侵攻してくると、香川之景ゆきかげが寝返りを画策。之景の判断に親和(長宗我部元親の次男)が反発し、激しい内紛が勃発。


 その結果、親和は逃亡し、之景は降伏。その報せは長宗我部元親に大きな衝撃を与えた。羽柴軍と宇喜多軍が、南下したら土佐に戻れなくなる。


 元親は阿波と讃岐からの上陸に備え、讃岐、阿波、伊予、土佐の結節点とも言える阿波西部の要衝たる白地城に約1万の兵で在城していた。


 三好方の城を攻めていた約1万の兵と合流し、なんとか守られねばならない。白地城が落ちたら土佐は丸裸同然。その時間稼ぎに恭順の使者を送った。


 その数日後、信孝軍は約3万で白地城そばに陣を構えた。合戦も考えていた元親であったが兵力差は歴然。しかも長宗我部の兵士は一領具足(いわば民兵)が多く、兵装は貧相である。現れた信孝の兵士たちは大量の鉄砲隊を擁し、見栄えもいい。

  

 さらに数日経ったとき、白地城へ最悪の報せが届いた。大軍が那賀川沿いに土佐へ向かっているというのだ。伊予からも小早川隆景が河野通直みちなおを臣従させ、国人が次々に降っているという報せが届いている。もはや土佐は完全包囲されてしまった。


 藁にもすがる思いで2度目の使者を出したが、信孝に会えず追い返された。仕方なく元親は城外に出て合戦を挑んだ。しかし数で勝る信孝軍に圧倒され惨敗。総崩れとなり土佐へ敗走。


 この3日後、居城である岡豊城を包囲された元親は3度目の使者も追い返されるに至り、城に火を放ち自刃。その後も各地の抵抗勢力を排除し、信孝上陸から約1ヶ月後、四国各地の国人などがすべて集められ仕置が行われた。


 伊予は小早川隆景、讃岐は羽柴秀吉の管理、土佐と阿波は織田信孝の管理となり、検地が開始され、抵抗した国人は直ちに討伐。検地と平行して、各村々では長宗我部の残党狩りが行われた。


 さらに信孝は土佐高知城と阿波徳島城の建造を決定し、国人へ賦役の割当を行い、翌年の2月には大坂へ帰還した。


 ほどなくして小早川隆景が伊予を譲渡された件の礼を織田信雄にするため羽柴秀吉帯同で大坂に訪れた。織田家と毛利家の和睦はぼんやりとしたもので、強いて言えば従属的な同盟である。


 そのため伊予も毛利家ではなく小早川家が受け取る形になった。それも伊予侵攻の褒美ではないという建前。


「これは又四郎殿(隆景)、遠いところわざわざお越し頂き、かたじけない」


「三七郎様には格別のおはからい頂き、有難きこと。今後ともよしなにお願い申しまする」


 このあと信孝は2人を伴ない安土城の信雄を訪ねた。無論、信雄は毛利を代表して小早川隆景が挨拶に来たと上機嫌である。こうして形だけではあるが、信雄の天下人としての地位高まっていった。


 そして桜が咲き始めた。

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