第14話 四国征伐①

 寒さが身に染みる時期となり柴田勝家は動けず北ノ庄城へ籠もっていた。雪が降り積もる北国の宿命である。戦闘に参加する兵士だけなら移動出来ないことはない。


 しかし荷駄の運搬や野営は困難といえよう。上杉謙信が行った関東出兵のように、本国が雪で閉ざされる期間、積雪の少ない地域へ移動する方法もある。


 雪溶けとなったら、春日山城に森長可を入れさせ、全軍で長浜城に向かう。そして安土城から三法師様をお救いする。自身が名代となり、近江、美濃、尾張、伊勢を制圧。このような構想を描いていた。


 ここで少し農繁期の戦争について考察してみたい。まず農繁期は戦争出来ないというのは誤解である。主要な戦いを見ても普通に田植え時から秋が多い。関ヶ原、川中島、桶狭間、長篠、姉川、信長上洛、摺上原、厳島、大坂夏の陣等。


 そのほかの大名を見ても農繁期に戦争する事例などはいくらでもあるわけで、実際とイメージは乖離していると言えるだろう。兵農分離により常備軍が成立みたいに言われる。しかし軍役の形式は信玄や太閤の時代だろうが大差ない。鉄砲の割合とか異なるだけ。


 秀吉は九州遠征、小田原征伐、文禄・慶長の役等、大規模動員を行ったが収穫に多大な影響を及ぼし、各地で一揆や謀反頻発という話も聞かない。


 ようするに兵農分離しようとしまいと農業生産力は落ちなかった。つまり当時の農業生産に対する労働力は充足していたと考えるほかない。


 その気になればいつでも戦えたのであろう。ただ季節によっては雨が多いとか寒くて雪が降るなど物理的に厳しい。真夏なら日射病や脱水症の危険あるというのは現代と同じだろうし、衛生状態悪ければ病気にもなる。


 農繁期の戦争は労働力うんぬんでなく農民が嫌がる。軍勢が田畑を通ったり、野営されたら、乱取り(略奪)の危険を含めて普通に迷惑であろう。


 乱取りや青田刈りされないよう米の備蓄が少くなる時期に物資を差し出し、過剰な行為を止めてもらうこともあったはず。さらに決定的なのは西日本では稲作だけでなく裏作が盛んだった。二毛作してれば基本的に年中忙しい。農閑期など無いに等しい。


 農繁期の問題としては動員する兵士が野良仕事出来なくなるから、というよりは行軍、野営、合戦などで土地の農民に迷惑をかけるうえ、米の備蓄も乏しくなる。その辺が本質だろうと思われる。


 そのころ和歌山には九鬼の軍船が大量に集結していた。織田信孝を総大将に丹羽長秀、池田恒興、高山重友、中川清秀の総勢6万で長宗我部を攻めるためであ。


 なお本能寺の変前、信孝たち四国遠征軍に先行して讃岐・阿波へ上陸した三好康慶やすよし(咲岩しょうがん)は撤退していたが今回同行する。また岸和田城主の蜂屋頼隆は長宗我部へ呼応するかもしれない紀伊の国人を警戒し、残ることになった。


 さらに羽柴勢と宇喜多勢がおよそ2万の兵で備前より南下し、阿波へ上陸。毛利は小早川隆景を総大将とする1万で伊予へ上陸。すでに淡路に居る仙石秀久を含めると4方向からの侵攻となる。


 信孝は今回の征伐にあたり、安土へ織田信雄を訪ねて征伐の許可を取り付けた。信雄は30ヶ国から動員した15万の兵力による大遠征であると各地へ使者を派遣している。


 つまりもぬけの殻になると喧伝しているようなもので、信孝や長秀は苦笑するしかなかった。このとき信孝に随行した者たちは信雄を上様と呼び、大いに喜ばせたのである。


 普請中の和歌山城そばにある陣屋で広之は数ヶ月前、鈴木氏の取材で和歌山県を訪れたことを思い起こしていた。もし取材に訪れずれなかったら、こんなことにならなかったはず。


 それはそうと、この時代、讃岐にうどんあるのだろうか? あるにはあるはず。問題はそこらへんで食えるか、ということ。広之はうどんに目がない。


 特に好きなのが“讃岐うどん”と“博多うどん”だ。讃岐のコシと博多の柔らかさ。両方とも甲乙つけがたい。高松に行ったら朝と昼はうどん。夜は骨つき鶏で飲むのが定番。


 一方、食の桃源郷と言える博多へ行ったら、博多駅インの場合、まずバスターミナル地下にある“牧のうどん”。空港アウトの場合は国内線ターミナル2階にある“因幡うどん”。夜飲んだあとはウエストで〆るのが鉄板である。


 などと考えながら、うどんが猛烈に食いたくなるのであった。大坂にも、この時代うどん食文化あるはずなので戻ったら市中を探すのも手ではある。あるいは昆布、イリコを入手し、女中に打たせてみようか?


 そんなことを考えてるとき丹羽長秀の使いが来て陣屋に呼ばれた。それにしても眼光鋭く只者ではない。部屋の外から素晴らしくいい香りがする。これは明らかにあれだ……。


「おお来たか。左衛門殿。紀伊の国人より鯨が届けられてのう。いま汁にしたところじゃ。紀州湯浅の醤油を入れてみた」


 同席している中川清秀などはまだ明るいのに酒が止まらなくなっている。明智光秀の首を討ち取り、長秀から6万石を拝領した戸田勝成はさすがに主君の前とあって、控え目だ。


「お主の口にも合うようじゃな。先ほど使いに行かせた者はいかがじゃ」


「はあ、いかがと申されても初めてお目にかかる方でしたな」


「元は筒井へ仕えておったのじゃが、新たに召し抱えている。名は島左近と言うてのう……」


「えっ、あの島左近でござりまするか!」

(本読んで見つけやがったな……)


「然様、島左近でこざりまするよ」


 長秀は自慢気に答える。まるで野球のドラフト指名でノーマークの有望株を下位指名したようなもんだな、と思う広之であった。


 翌朝、風の塩梅もよく信孝軍は続々と阿波の勝瑞城目指して渡海した。史実においては本能寺の変が起きたあと、勝瑞城は陥落している。しかし歴史が変わり、信孝が紀伊へ侵攻した結果、援軍も近いと士気の上がった勝瑞城の十河存保が懸命に死守。


 信孝の軍勢は淡路島南部の良港である福良を中継地点にしながら勝瑞城と、北方面にある木津城の確保を最初の目標にしていた。すでに淡路島の羽柴秀吉配下である仙石秀久が木津城側に兵2千で上陸。


 さらに讃岐方面は源平合戦で名高い屋島を経由して喜岡城(現在の高松市に位置)を羽柴・宇喜多の軍勢がすでに陥落させ、周辺へ展開。毛利の小早川隆景も伊予へ上陸を開始。


 それらの報に接した長宗我部元親は阿波に展開していた軍勢を後退せざるを得なかった。

 


 

 

 

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