第3話 本能寺の変起きる

 広之の目が覚めると、傍らで幸田孝之は何やら筆を走らせていた。さらによく見ると部屋の隅で織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆の3人が広之の持っていた本や新聞を真剣な眼差しで読みふけっている。


「仙人、いや広之殿、起きたようじゃな」

 丹羽長秀が半笑いで声をかける。


(俺のあだ名は仙人かよ。まあ仕方ないか)

 広之は少しムッとしつつも「皆様方、勉学の最中ですか?」と返す。


 長秀は起きるのを待ってました、とばかりに雑誌を持って近づいてくる。


「書物に東京都とあるが、どこにあるのかのう。この絵(写真)を見ると天守は途方もない高さじゃ」


 東京都が武蔵の国にある江戸であり、小田原征伐を経て徳川家康の領地となってから約430年先の姿……。


 みかどは東京に居るため京が付いてることを説明した。長秀たちは日本列島の衛星写真も見たようで関東平野の広さや北海道に興味津々の様子。


 新聞にも衝撃を受けている。民衆によって選ばれた者が“まつりごと”を行うのは信じ難いようだ。


 頼隆はバットを構える打者を見て「この者、尋常ならざぬ面構え、是非当家に欲しいものじゃ」などと呟いている。野球をボールとバットで殺し合いするものだと勘違いしているらしい。


 信孝は相撲好きで知られる信長の息子だけあって番付に釘付け。


(いや、この人たちに説明するの疲れるな)

 盛り上がっている長秀へ秀吉をどう思うか聞くと評価は非常に高い。「織田家中であれほど働くやつ居ないから天下取ったのも不思議ではない」そうだ。


 あと信孝の異母兄である織田信雄のぶかつについても聞いたが、言葉を濁してた。おそらく後世のイメージ通りなのだろう。


 広之が起きる2時間も前から信孝たちは何種類かの書状を大量に作ったり、大坂城(当時すでに千貫櫓せんかんやぐらがあり、実質的に城と言える)にある兵糧、矢弾、銭などあてにして軍事計画を構築しつつある。


 信長と信忠が無事に都を脱した場合、最悪の場合、そもそも何も起きなかった場合、以上3パターンを念頭に置いてるようだ。


 しばらくすると朝食を皆で食べることになった。玄米飯、味噌汁、泉州水茄子の漬物という内容。記念すべき戦国時代に来て初の食事である。


 食事中、長秀の思いつきで幸田左衛門広之が正式名になった。幸田彦右衛門孝之の従兄という設定だ。長秀が五郎左衛門尉ごろうざえもんのじょう(左衛門尉は官位。当時、官位風の名前が流行ってた)なので左を頂戴した形になる。


 最初は信長の小姓として有名な森蘭丸、あるいはアフリカ系家臣の弥助などにあやかった“仙丸”や“仙助”も提案されたが広之の強い意向で却下。そのあとも“仙五郎”や“仙五郎丸”に成りかけ、ようやく決まった。


 長秀は織田家中にあって普請、補給、外交を得意としており、彼の家臣団は優秀な行政官僚集団と化している(豊臣五奉行の長束正家も丹羽長秀の家臣だった)。ときおり廊下で家臣たちへ指示を出してるが実に的確極まりない。


 11時近くになったとき早馬が戻った。

「上様、御無念。敵の旗印は水色桔梗みずいろききょう


 信孝はそれを聞くと一瞬天を仰いだが、直ぐさま口を開く。「逆賊、日向守討つべし」と静かに声を絞り出した。


 岸和田城主蜂屋頼隆は不測の事態に備え城を固め、信孝と長秀は住吉から紀州街道を南下している四国遠征軍と合流させねばならない。まずは作成した書状を池田恒興、高山重友(右近)、中川清秀、筒井順慶、三好康長、羽柴秀吉などへ送った。


 信孝の家老岡本良勝は朝の段階で四国遠征軍に合流すべく向かっている。そして信孝一行は頼隆に見送られながら岸和田城を出発。


 朝食のあと広之は孝之から馬の乗り方を付け焼刃で教えてもらったのだ。なんとか信孝一行に遅れまいと必死に食らいつく。というか馬が勝手に走ってくれている。


 約3時間ほどで堺のそばまで来ていた四国遠征軍に合流出来た。そこへ後発の早馬も京の都より到着し、信長に続き信忠が討たれたとの内容を告げる。


「皆の者、よく聞くがよい。本日明方あけがた、京の都で明智惟任これとう日向守乱心(本来、別心だが馴染み薄いので乱心を使用)により上様と殿を襲ったが2人とも難を逃れ近江へ退かれた。我らは明日渡海する予定であったが上意により逆賊日向守を討つ! 日向守はかしこくも誠仁親王さねひとしんのう殿下にも刃を向けた朝敵である。恩賞は思うまま。非道な朝敵を成敗し、存分に手柄を立て、天下に名を知らしめ、子々孫々までのほまれとせよ!」


 信孝一世一代の演説に1万4千名はどよめき歓声をあげる。これにより第一関門は突破した。徳川家康は史実だと飯盛山の麓で茶屋四郎次郎から事の次第を聞き、伊賀越えを敢行する。


 長秀は数日前大坂で家康を接待していた。そのとき家康に付き、世話していた家臣を選び、向かわせる。


 こうして四国遠征軍改め日向守討伐軍は怒涛の勢いで北上すると天王寺から上町台地の東側を進む。それに先行して丹羽長秀は50騎ほど引き連れ大坂城へ乗り込んだ。


「五郎左殿、岸和田に居られたのでは?」

 焦燥した津田信澄が口を開く。


 信澄は決して凡庸ではない。それどころか織田家中でも優秀な武将だ。しかし本能寺の変が起きると自身は明智光秀の女婿という立場から身動き出来なくなっていた。


 実は信澄も信孝の四国遠征軍へ加わる手筈になっており、住吉へ向うはずだったが、どうしていいかわからず様子を見るほかなかったのである。これは無理もない。信長と信忠が突如討たれたのである。驚天動地の出来事であり、多くの織田家臣が慌てふためいたのだから……。


「ご無事で何より。儂と三七郎殿が岸和田より住吉へ戻ったところで上様と殿の事を聞いた。まずは大坂へ向かうべしと三七郎殿に申したところ、儂が大坂で七兵衛殿(信澄)や藤五郎とうごろう殿(長谷川秀一)と三河殿(家康)の接待したおり、日向守も同席し、謀議を企てたなどとたわけたことを……。そのまま争いになり逃げて参った次第」


 長秀、会心の名芝居であった。


「七兵衛殿、日向守に加担するおつもりないこと、この五郎左よくよく存じておりまする。しかしながら京の都や大坂の口さがない者は皆共謀して父(信勝=信行)の仇を討ったと申しておる始末。このままでは主君殺し、朝敵とのそしりを受けるのは必定。謀反人の不名誉を回避するためには上様と殿の喪に服し、謹慎なさるのが肝要」


 我が意を得たり、と信澄は思った。


「三七郎殿は何を考えておるのか。下々の者も好き勝手言いおって。儂らが日向守に加担してるはずなかろう。神や仏に誓いやましいことは何ひとつない。しかし五郎左殿よくお戻りくだされた。三七郎殿や勝三郎殿(池田恒興)へそれがしと身の潔白を示してくださらぬか?」

 

 まずは明智の使者が来たら様子を探ったうえ捕縛すること、など話し合いつつ各地の諸将へ送る書状の準備をしているとき異変が起きた。


「三七郎様の軍勢が押し寄せそうろう!」


 信澄と長秀の居る千貫櫓に兵の声が響く。同時に櫓の外から怒声が聞こえる。このときすでに長秀の兵が城門を開いて、信孝の軍勢を引き入れたのだ。


 そもそも大坂城を造営するに当たり長秀と信澄が普請を行っていた。当然、長秀の家臣もそうとうの人数詰めており、そこへ長秀が50騎を引き連れ入城したのだから、制圧は比較的容易である。


 千貫櫓の周囲は長秀の兵が完全に包囲し、信孝の兵も城内を一気呵成に制圧する勢いだから、信澄にすればたまったものではない。


「五郎左殿、これは何事でござるか?」


「見ての通りじゃ。日向守を恨め」


 千貫櫓へ長秀の兵が次々なだれ込み信澄と家臣を取り囲む。やがて信孝の大軍も千貫櫓へ押し寄せた。


「七兵衛殿、御武運これまで覚悟めされ」


 櫓に足を踏み入れた信孝が、そう言い放つと信澄は力なくうなだれた。


 ほどなくして事態を悟った信澄が妻(明智光秀の娘)をはじめとする身内の命と引き換えに切腹したのである。


 信孝と長秀は素早く各地へ使者を送った。日向守と謀反に及んだ津田七兵衛の親子を討ち取ったので明日中に残る日向守も成敗するから参陣すべしとの内容。


 城の門前に信澄および家臣の首が天下の罪人として晒された。


 その頃、飯田山の麓で信長と信忠のことを聞いた徳川家康は切腹を覚悟。しかし家臣に止められ帰国を決意。先発隊がルートの工作に出発したあと山中に身を潜め、京の都や各方面の動静を探っていた。そこへ長秀からの使者が現れたのである。


 使者は大坂にて家康の世話をした青山宗勝。信孝たちは信長と信忠の仇を討つため、1万4千の兵で光秀の女婿津田信澄が籠る大坂城へ向かっており、是非合流されるよう説いた。


 話を聞くや家康の即断で合流が決まり、穴山梅雪も含め一行は大坂へ急ぐ。途中、宗勝から少し遅れて信孝が派遣した200騎ほど一行に加わり、護られながら家康たちは大坂城へ到着。門前で信澄の晒し首や無造作に転がる無数の首を見つつ入城した。


 その日の夜、大坂城は静かな熱気に包まれていた。織田信孝、丹羽長秀、池田恒興、徳川家康、穴山梅雪たちが軍議を行い、明朝山崎へ向かうことに決定。


 高槻城主高山重友、茨木城主中川清秀からは明智討伐軍に加わるとの使者が来た。


 軍議にて総大将信孝、副将家康、先陣重友が決まる。高槻城から山崎は目と鼻の先であるため、もっとも近い重友が先発し陣取るという大役を本人不在ながら射止めた。家康と梅雪は信孝に同行する。


(家康渋いけど圧あるし恒興目ヂカラ強い)

 広之はジーンズ姿から武士の姿に着替えさせられ信孝の家臣として諸将に紹介されたが、ほぼ黙ったまま眺めていた。


 史実において四国遠征軍の大半は逃走したわけで、信孝と長秀も最深の注意を払っており、余念がない。米を大量に炊き、魚や野菜も山のように用意し、酒は1人2合まで与えた。


 ほどなくして信孝、長秀、孝之、良勝、広之の5人は城内の小さな屋敷に集まり、史実における山崎の戦いを広之からレクチャーされる。


「左衛門殿の絵図は素晴らしい」


「10万貫の値打ちはある」


 洛南にあったはずの巨椋池おぐらいけがなかったり、大坂(現代では大阪だが当時大坂)の海岸線、大和川、人工島など様子違うことに気付くと、やはり図面は偽物ではないかという声も聞こえた。


 しかし巨椋池や大坂は埋め立てられ、大和川の位置も替えたことを広之が説明すると驚嘆している。


 現代の地図を参考に当時の地形に即した畿内の図面(当時地図とは言わない)を作る必要があるなど盛り上がるのだった。



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