2-2

 お盆の時期になると周囲がざわめき始める。あの世とこの世が繋がりやすくなるから、仕方がないといえば仕方がない。

 案の定、今日もシロウの気配に引き寄せられたモノたちが近づいてきた。一人は着物姿だったから、シロウから漂う懐かしい気配に惹かれたのだろう。

 もう一人は、おそらく自死者だ。自ら生を終えたというのに未練があるのか、フラフラとシロウに手を伸ばそうとした。最後までねっとりとした気配を漂わせていたのを考えると、年若い男に欲望を抱くタイプの男だったに違いない。


「シロウはとびきりかわいくてきれいだから、あちらの世界でもこちらの世界でも目が離せませんね」

「ん、なに……?」

「わたしのシロウは、とてもかわいいという話ですよ」


 潤んだ青灰色の目を見つめながらそう伝えれば「嬉しい」とつぶやいて体を震わせた。

 シロウが「かわいい」と言われると喜ぶことは曾祖父の日記で知っていた。実際に喜びはにかむ顔を見ると、想像していた以上に愛しい気持ちが湧き上がってくる。

 おそらく曾祖父もそうだったのだろう。だから、使用人たちに止められてもシロウをかわいがった。妻の目を盗んでは干菓子を与え、頭を撫でて慈しんだ。いけないとわかっていながらも手を伸ばし、細く頼りない体に触れた。あふれる愛情が歪に変わっていくことに気づきながらも、伸ばす手を止めることができなかった。


那津ナツ、もっと撫でて」


 白い体を震わせながら、囀るように「もっと」とねだる。これも日記にあったとおりだ。「もっと、もっと」とせがみ「もっと撫でて」とねだる。白い肌を薄紅色に染めながら潤んだ瞳でわたしを誘う。


「ぁ……、気持ちいい」


 首すじから鎖骨、胸、薄いお腹と順番に手のひらで撫でる。それだけで赤く染まった肌をふるりと震わせるのだ。


「相変わらずシロウは気持ちいいことが好きですね」

「……だめ……?」

「いいえ。そんなシロウもかわいくて大好きですよ」

「……僕も、那津ナツが好き」


 ふわりと笑った唇に、触れるだけのキスをした。


(シロウは快楽にとても弱い)


 愛情を欲しながらも与えられることがなかったシロウは、曾祖父が与えてくれる愛情を貪欲に求めた。そんなふうにシロウを変えてしまったことを曾祖父は悔いていたようだが、わたしは悔いたりしない。

 かわいく美しく、そして淫らなシロウを見て諦めるなど愚かなことだ。わたしならもっと貪欲に、窒息してしまうほどの愛情を注ぎ続ける。触れて撫でてキスをして、体の奥深くまで愛情を注ぎ続ける。

 二度とシロウを手放さないために。二度と離れられないようにするために。


「もぅ、切ないから……。奥が、切ないから……那津ナツので……して」

「わたしの、何で?」


 少し意地悪を言うと、シロウの顔がくしゃりと歪んだ。


(あぁ、なんてかわいいのだろう)


 頬を真っ赤に染め、泣く寸前のように目を潤ませたかわいい顔。キスに濡れた唇をわずかに開き、赤い舌をチラチラと覗かせる淫らな姿。青年なのか少年なのか、そもそも男でも女でもない色香を漂わせているのはこの世の理から外れているからかもしれない。


「シロウ」


 優しく名を呼べば、ますます顔が赤くなる。


「……那津ナツの、那津ナツのを、僕のに……」


 言葉は最後まで続かなかった。羞恥のあまり真っ赤になった頬をぺろりと舐めてから、甘い吐息を漏らす唇を再び塞ぐ。


昔のわたし・・・・・のことなど、忘れてしまえばいいのに)


 肉体がどこまで似ているかわからないが、昔のことなど忘れてしまえばいい。いや、忘れさせようとしてきた。昔のことを塗りつぶすようにいまのわたしを上書きし、刻み込み、忘れられなくしてきた。

 昔の那津ナツのことなど、永遠に忘れてしまえばいい。毎日そのことばかり考えている。


(ここまで強く思うのは、やはり同じ名前だからだろうな)


 幼い頃、母に連れられて曾祖父の家に行くことが多かった。すでに曾祖父は他界していたが、残された財産を継いだ母が掃除をしに通っていたからだ。

 もちろん幼いわたしが掃除の手伝いをするはずもなく、いつも屋根裏部屋を探検していた。そのとき見つけたのが曾祖父の日記だった。

 日記の表には“丹宝 那津”とはっきり書かれていた。当時すでに自分の名前を漢字で書けるようになっていたわたしは、自分と同じ名前が書かれているその日記を家に持ち帰った。


(日記をすべて読み終えたのは、小学六年になった頃か)


 難しい漢字で書かれていたにも関わらず、辞書で調べながら夢中になって読み進めた。そうしてすべて読み終えた日の夜、写真でしか見たことがなかった曾祖父が夢に現れた。その後も何度か夢に現れた曾祖父は、いつも同じようなことを口にした。


『シロウはかわいい。シロウは優しい。シロウは真面目な子だ』


 そして、シロウはとてもかわいそうな子なのだと口にした。

 曾祖父の夢のせいか、元々日記の中のシロウに興味があったからか、わたしはシロウのことがすっかり好きになっていた。小学校を卒業する頃には間違いなくシロウに恋をしていた。


(これも曾祖父の血を引いているから……とは思いたくないな)


 わたしが生まれた鞍橋くらはしの家は、曾祖父の息子に唯一できた娘、つまり母の嫁ぎ先だ。

 鞍橋くらはしは昔から“狐つき”と呼ばれる家だったそうだ。戦前はそれなりの豪商だったが、いまは地方にいくつかホテルを経営しているだけに留まっている。

 それでも鞍橋くらはしの祖母は、いまの鞍橋くらはしがあるのは“お狐様”のおかげだと言い続けた。実家の庭には小さな古い祠があり、毎日熱心にお参りするような祖母だった。


(そういう家だったから、いわくつきの丹宝にほうの血を引く娘でも嫁ぐことができたのだろうな)


 わたしには兄と姉が一人ずついるが、夢に曾祖父が現れたのはわたしだけだった。おそらく同じ狐つきだった牡丹の血を色濃く引き、なおかつ鞍橋くらはしの狐に好かれたのがわたしだけだったのだろう。小さい頃から狐火を見かけることがあったし、不思議なモノたちを目にすることもあった。

 そんなわたしの左鎖骨の下には、生まれつき赤い牡丹模様をした痣がある。その痣を見た母が「やっぱり」とつぶやいたと父から聞いたのは中学生になってからだった。


(何かを感じたからこそ、曾祖父の家にわたしだけ連れて行ったのだろう)


 それまで年に一回行くか行かないかだった曾祖父の残した家に、母は頻繁にわたしだけを連れて行くようになった。兄姉どころか父ですら一度も行ったことがないというのにだ。

 曾祖父の財を継いでいた母は、生前贈与だと言って田舎町の家や古美術などの一切をわたしに譲った。おかげで兄姉とは少しばかり溝ができてしまったが、家族間の溝などわたしにとっては些細なことでしかない。

 わたしは曾祖父の財を切り崩しながら、取り憑かれたように丹宝にほう家のことを、シロウのことを調べた。そうしていわく付きの土蔵にたどり着き、シロウを取り戻すことができた。


(そもそも狐憑きは案外大変なんだ)


 あれを兄姉が対処できるとは思えない。厄介な出来事に出くわすことも多く、その分の対価だと思えば継いだ財でも少ないくらいだ。


(まぁ、狐憑きのおかげで生業に困ることはないが)


 そんなことをつらつら考えてしまうのは、そうでもしなければすぐに持って行かれてしまうからだ。


那津ナツ、気持ちいぃ」


 シロウの濡れた甘い声に口元がいやらしく歪む。夢うつつ表情は快感に溺れているからだろう。ふるふると震えながら遠くを見ている青灰色の瞳に、腹の底からぞくりと興奮した。


「これでより一層、体も安定するでしょう」


 一年かけて注ぎ続けた結果、シロウの気配は間違いなく此岸に保たれるようになった。体のほうも間もなく此岸に根付くはず。

 淫らで強烈な体の交わりはシロウを此岸に繋ぎとめる。欲望や煩悩といったものは、此岸に強烈に縛りつける足枷となって彼岸へ行けなくするからだ。現に欲望を抱き続ける多くのモノたちが此岸に留まっている。それを祓うのを生業にできるほど、此岸は生者や死者の欲望にまみれていた。


(憎悪に怨念、性欲に食欲、誰かを思う強い気持ちもすべて欲でしかない)


 それを利用してシロウをこの手に留めている。彼岸へといざなう念仏も仏も、わたしとシロウには必要ない。あの世へ導くための線香に用はない。

「それにしても」と笑いが込み上げそうになった。


(シロウを殺した者の血が、まさかシロウを呼び戻すことになるとは夢にも思わなかっただろうな)


 左鎖骨の下にある牡丹模様の痣がわずかにじくりと痛んだが、そのくらいでわたしの想いが薄まることはない。これから先もずっと、わたしの肉体が滅ぶまでシロウをこの身に縛りつけ続けるだろう。


(あの女が死ぬほど憎んだシロウを、あの女が愛した男たちのようにわたしが愛する)


 この体にはあの女の血が色濃く流れているにも関わらずだ。さぞや彼岸で口惜しがっているに違いない。いや、口惜しいと思っているのは曾祖父も同じか。

 そう思うだけで腹の底がゾクゾクした。


「シロウ、シロウ、わたしの愛しい、わたしだけのシロウ」


 気を失ったかわいい顔を眺めながら頬を撫でた。昔から撫でられることが好きだったらしいが、そろそろ曾祖父の手の感触は忘れただろうか。


「これだけ抱いているのだから、手の感触も肌の熱も、そうですね、中を穿つ形すら上書きできたはず」


 早く昔の那津ナツのことなど忘れてしまえばいい。


「そして、わたしだけを覚えていて」


 ぽろりと落ちた涙を拭い、かわいい唇にキスをした。

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