3-1

那津ナツ、浴衣は鞄から出したほうがいいかな」

「そうですね、皺が寄っては台無しになりますから……はい、これに掛けておいてください」

「わかった」


 那津ナツが持ってきてくれた長い棒に浴衣の袖を通し、爪先立ちで棒の両端を鴨居に引っ掛けた。


「……新しい浴衣だ」


 一年前、この家にいたときに着ていた浴衣とは模様や色が違う。あの浴衣はまだ十分に着られるはずなのにと思うと少しもったいない気がした。


「初めてのお祭りなんですから、新しい浴衣を仕立てておいたんです」


 僕の表情に気づいたのか、那津ナツがそんなことを口にした。


「そんな無駄遣いしたら駄目だよ」

「無駄じゃありません。かわいいシロウが、よりかわいく見えるようにと選んだんですからね」

「もう、那津ナツったら」


 僕が「かわいい」と言われるのが好きだと知っていて、そういうことを言うに違いない。那津ナツに言われるのはたしかに嬉しいけれど、そんな目で言われたら体が熱くなるから困るんだ。

 これ以上熱くならないように、慌てて目の前の浴衣に視線を戻した。

 白地に紺色の縦線が入ったものは昔からよく見かける柄だ。そこに蝶の模様が入っているのは那津ナツのこだわりに違いない。濃い藍色の帯にも白い蝶の模様が入っているからお揃いにしたかったのだろう。

 そういえば、那津ナツはよく蝶の模様が入ったものを使っている。お財布にも蝶の型押しが入っているし、名刺入れやパソコンカバーにも蝶の模様があしらわれていた。

 だから僕の浴衣にも蝶の模様を入れたのかな、なんて思うとにやけてしまいそうだ。「何だか那津ナツのものになった気分がする」なんて思ってしまう自分が恥ずかしい。それを誤魔化すように「女の子の浴衣みたいだね」なんてことを口にしてみる。


「シロウに似合うものをと選んだんですが?」

「本当に、僕に似合うと思う?」

「えぇ、とてもかわいくなると確信しています」


 真剣な眼差しに顔が熱くなった。僕が慌てて「もうっ、那津ナツはキッチンの掃除をしてきて」と言うと、苦笑しながら「はいはい」と返事をする。

 ますます恥ずかしくなった僕は、笑っている那津ナツを部屋から追い出した。そうして今度は那津ナツの浴衣を取り出し、僕の浴衣の隣に並べて掛けておく。


那津ナツのは、すごくかっこいい」


 僕のとは逆に藍色に白い縦縞の入った浴衣と、帯は織り模様の入った黒いものだ。背が高い那津ナツがこの浴衣を着たら、きっととても目立つ。お祭りに来るいろんな人たちが那津ナツをうっとり見つめることだろう。


「……あんまり見られるのは、嫌かな」


 かっこいい那津ナツをみんなに見てほしい気持ちはあるけれど、あんまり見てほしくないとも思う。どうしてそんなふうに思うのか、自分でもよくわからない。


「ふぅ」


 窓を開けて縁側に腰掛けた。

 九月になったからか、昼間も少しだけ涼しくなった気がする。それとも、ここが都会から遠く離れた田舎町だからだろうか。


(去年もいたはずなのに、お祭りがあったなんて全然気づかなかった)


 お祭りは、この家から歩いて行けるところでやっているそうだ。それならお囃子くらいは聞こえそうなものなのに、一年前の僕はまったく気がつかなかった。


(……そっか、あれからもう一年経ったんだ)


 この家を出たのは去年の冬の始めだった。それまではずっとこの家の中で過ごしていた。毎日浴衣姿で、洋服を着るようになったのは都会の家に移ってからだ。


(ずっと家の中にいたのに、家の中のことはあまり覚えていないんだよなぁ)


 半分以上は布団で寝ていたから、覚えているのは縁側の先に見える庭くらいしかない。ずっと寝てばかりだったけれど、それでも僕はとても幸せだった。

 そばにはいつも那津ナツがいて、少し骨張った大きな手で何度も撫でてくれた。優しい声で「シロウ」と何度も呼んでくれた。そばに那津ナツがいてくれることが嬉しくて、それだけで幸せだった。


(前はずっと撫でてもらうことなんてできなかったのに)


 周りをよく見て、気づかれないように撫でてもらうことしかできなかった。誰かに気づかれたら大変なことになるから、もっと撫でてほしくても我が儘は言えなかった。


(それに、もう少しひんやりした手だった気がする)


 そう感じたのは、緊張して僕の体が火照っていたからだ。少しひんやりして骨張った手は、とても滑らかで気持ちがよかった。撫でている間に少しずつ温かくなっていくのも気持ちがいい。

 その手に体中を撫でられるのが好きだった。気持ちがよくて、いつだってあの手で撫でてほしかった。


(そういえば、何かをもらっていたような……)


 骨張った指が小さな何かを摘んで僕の手のひらに置く。僕はその骨張った指が好きだった。

 何かを摘むとき、きゅっきゅっと動く節が好き。綺麗に整えられた爪の形が好き。僕よりずっと大きな、男の人らしい指と手が好き。


(……あの手は、誰の手だっただろうか)


 何かがもやの向こう側に見えそうになったとき「シロウ」という声がしてハッとした。


「お昼はそうめんにしましょうか」


 キッチンのほうから那津ナツの声がする。


「僕も手伝う」


 立ち上がりながら「あれ?」と思った。いま何か大事なことを思い出しかけた気がする。

 僕がずっと大好きだった何かで、とても大事な何か。そういえば去年の今頃も同じようなことを思っていた気がする。大好きで大事な、何かの記憶。


「……そうだった、お昼の手伝いをしないと」


 ぼんやりした頭のまま庭を見た。ジリジリした日差しはすっかり和らぎ、遠くで最後の力を振り絞るように蝉が鳴いている。僕は縁側の窓を閉めて、那津ナツのいるキッチンに向かった。


 昼食を食べてから少し休憩した後、二人で浴衣に着替えた。そうしてお祭りに向かう頃にはすっかり日も暮れていた。


(お祭りってすごいな)


 それにとても賑やかだ。夜なのに灯りがたくさんついていて人も大勢歩いている。道の両端にずらりと並ぶ夜店では、いろんな食べ物が売られていた。

 興味津々で見ていたら、那津ナツがラムネとりんご飴、それに綿菓子を買ってくれた。ラムネは口の中がしゅわしゅわするのがおもしろくて、リンゴ飴や綿菓子はびっくりするくらい甘い。子どもの頃にも食べたことがないものばかりで、どれもとてもおいしかった。


(楽しいんだけど、いろんな人に見られるのは苦手かも)


 てっきり那津ナツを見ているんだと思っていた。それが僕に向いている視線もあるのだと気づいたときドキッとした。初めはどうして見られるのかわからなかった。でも、大勢の人たちを見てその理由が何となくわかった。

 周りに僕みたいな白い髪の人はほとんどいない。いたとしても、おじいさんやおばあさんばかりだ。都会ではいろんな色の髪の人たちがいるから目立たなかったけれど、僕みたいな髪の毛は田舎では目立つのだと初めて知った。


(だから那津ナツは都会に連れて行ってくれたのかもしれない)


 都会なら外を出歩いてもジロジロ見られることはない。僕よりもっと目立つ髪の色や服を着た人たちが大勢いるからだ。那津ナツはそのことを知っているから、田舎町の家から都会の家に移ったに違いない。

 そんな那津ナツの気持ちが嬉しかった。今回だって約束したお祭りに行くために、遠いこの田舎町まで連れて来てくれた。


(家の中のことは覚えていないけど、町の雰囲気は懐かしい感じがする)


 都会の家はとても便利だ。でも、こういう田舎町や古めかしいあの家も嫌いじゃない。都会のマンションとは違う趣があるし、何より広くて静かだ。とても古い家だと聞いているけれど、きちんと手入れされてきたのがよくわかる。


(昔、僕が住んでいた家に少し似てるかな)


 向こうのほうがずっと広いけれど、雰囲気はよく似ている。あれに広い庭と、奥に土蔵があればもっと似ていたに違いない。


(土蔵も小さいのと、それに大きいのが……って、あれ?)


 ぼんやり浮かんていた大きな家の景色がバラバラに崩れ落ちていく。そういえば、僕が昔住んでいた家はどこだっただろうか。


(とても古くて……それにたくさんの人たちがいて……)


 でも、僕はいつも一人きりだった。誰も話しかけてくれないし、誰も僕を見てくれない。


(そうだ、そんな僕を撫でてくれる人がいた)


 僕は撫でてくれるその手が好きだった。もっと撫でてほしくて、いけないことだとわかっていたけれど「もっと撫でて」とおねだりもした。


 するり、するり。


 そうだ、こんな感じで頭を撫でてくれた。頬を撫でて、首や胸、それにお腹も撫でてくれた。


 するり、するり。


 骨張った大きな手で体中を撫でてくれた。体中を撫でてくれて、そのうち着物の中も撫でてくれるんだ。


 くちゅ、くちゅり、くちゅり。


 湿っぽい音がしてきた。気がついたらどこかに寝そべっていて、めくれた浴衣が太ももの上でくしゃりと皺になっている。


(このままじゃ、せっかく着せてもらった浴衣が脱げてしまう)


「かわいいですよ」と褒めてもらった浴衣が脱げるのは嫌だ。それなのに、浴衣はどんどんめくれ上がってしまう。そうして太ももを骨張った手が撫で始めた。


(駄目なのに、もっと気持ちよくしてほしい)


 僕の頭の中は「気持ちいい」でいっぱいになった。もっと撫でてほしくて、浴衣の裾を乱しながら体を捩る。


(違う、もっといっぱい撫でてほしいんだ)


 僕は浴衣の裾を大きく乱しながら「もっと」と口にした。そうして、ようやく骨張った手が撫でてくれた。


「ん、」


 僕が大好きな骨張った手が撫でてくれる。少しだけひんやりした骨張った指が触ってくれる。


(……ひんやりした指?)


 昨日の夜、撫でてくれた指は温かかった。違う、いつも温かい手で体中を撫でてくれる。ひんやりなんてしていない。

 じゃあ、この冷たくて骨張った指は誰の指だろう。温かい指は誰の指だろう。


(いつも撫でてくれるのは……この指じゃない)


 これ・・じゃない。この手じゃない。いつも僕を撫でてくれて、僕を気持ちよくしてくれるのはこの指じゃない。僕が大好きなのはこれじゃない・・・・・・


「違う、これじゃない。嫌だ、これじゃない、僕が大好きなのは、これじゃない!」



 パリン! パリ、パリン、パリパリ、パリン。



 ガラスが割れるような音が聞こえた。小さい頃、部屋の奥で見つけたビードロのような薄いガラスが割れる音だ。それが僕を包んでいて、上のほうから割れて落ちていく音がする。


「そう、シロウが求めているのはそれ・・じゃありません」

「……那津ナツ?」


 声がした足元のほうを見ると、浴衣を着たかっこいい那津ナツが立っていた。

 真っ暗な部屋の中だからか、浴衣も何もかもが真っ黒だ。サラサラの髪の毛も優しく笑う目も、全部が真っ黒にしか見えない。それでも僕には那津ナツが光っているように見えた。真っ黒なのにキラキラしていて、暗闇の中で那津ナツだけが浮き出るように光っている。


(そういえば、いつ帰って来たんだろう)


 僕は那津ナツと一緒にお祭りに出かけたはずなのに、気がついたら畳の上に寝転がっていた。いつ帰って来たのか、どうしてこんな状態なのか思い出せない。


「もうシロウの中にあなたは存在しません。それなのに未練がましいというか何というか」

那津ナツ?」


 呆れたように少し笑った那津ナツが、ゆっくりと近づいてきた。そうして僕の足元に膝をつく。


「こんないやらしい格好をして、しょうのない子ですね」

「……っ」


 言われてようやく自分の格好に気がついた。慌てて裾を直そうとしたけれど、その手を那津ナツに止められてしまった。


「そのままでいいですよ。いやらしくて、それにとてもかわいいですから」

「ん……っ」

「かわいいわたしのシロウ」


 名前を呼ばれただけで体の奥がザワザワする。でも、これじゃまだ足りない。もっと僕の名前を呼んでほしい。そして、もっともっと撫でてほしい。

 そうだ、僕が大好きなのはこの手だ。いつも僕を撫でてくれるのも、僕が大好きなのも、いま撫でてくれている那津ナツの指だ。


「あ……、もっと撫でて。もっと、もっと撫でて」

「えぇ、いくらでも撫でてあげます。外側も内側も、たっぷりとね」


 那津ナツの言葉が嬉しくて腰がヒクンと震えた。やっと、たくさん撫でてもらえる。大好きな那津ナツに撫でてもらえる。

 早く撫でてほしくて、僕はゆっくりと浴衣の裾をめくり上げた。

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