2-1
いい匂いがする。これは卵とバター、それにパンの匂いだ。他にも香ばしいコーヒーとベーコンの匂いがした。ということは、きっと葉物野菜やトマトもあるはず。
「……しまった!」
飛び起きて、パジャマのまま慌ててキッチンに飛び込んだ。そこには予想したとおり
「おはよう、シロウ」
「おはよう。あの、僕寝坊して、」
「わかってますよ。かわいい寝顔を思う存分堪能しましたからね」
「……見てないで、起こしてくれればよかったのに」
「おや、一応起こしたんですよ? ほっぺをつついたり、おでこを撫でたりして」
「それじゃあ、目は覚めないと思う」
「そうですか? 唇にキスをしたときには、シロウのほうから熱心に吸いついてきていたんですけどねぇ」
「……!」
(
真っ赤になっているはずの顔を隠すように俯く。そのまま「顔を洗ってくる」と言ってキッチンから逃げ出した。
洗面所で顔を上げたら、やっぱり真っ赤になった顔が映っていた。鏡は便利だけれど、こういうときにはっきりと見えてしまうのは恥ずかしい。赤色を消すようにジャブジャブと水で顔を洗い、フカフカのタオルで丁寧に拭う。
「ふぅ」
タオルのいい匂いで少しだけ落ち着いた。ふんわり匂うのは知らない花の香りで、洗濯するとこういういい匂いになる。
タオルの匂い、ボディソープの匂い、シャンプーの匂い、どれもいい匂いだと思う。でも、僕が一番好きなのは
「シロウ、朝ご飯ができましたよ」
「はぁい」
キッチンから聞こえた声に返事をして、濡れたタオルを洗濯籠の中に入れた。
いつものように二人で朝食を食べて、窓の外を眺めたり本を読んだりする。
(読書も仕事の一環なんだろうけど)
でも、やっぱりこのままじゃ駄目だ。
「やっぱり外に行こうよ」
「……いまですか?」
「うん」
昨日もその前も外に出なかった。だから今日こそはと思って顔を見ながらねだる。そうでもしないと
「
「そうですかねぇ」
「だって、引きこもりみたいだよ?」
「……そんな言葉、どこで覚えるんでしょうね」
そもそも
(だから近くの公園に行こうって、いつも誘うんだ)
そこは大きな公園で、大きな木もたくさんあってとても気持ちがいい。大勢の人たちが集まる場所のようで、小さな子どもたちが遊ぶ姿や犬の散歩をしている人の姿も見かける。大きな公園に行ったことがなかった僕にとって、そこはすぐにお気に入りの場所になった。
それなのに、
まだブツブツ言っている
「ほら、やっぱり暑いじゃないですか」
「暑いけど、噴水の近くなら涼しいんじゃないかな」
「噴水までが暑いんですよ」
「もう、
真冬の寒さは平気なのに、梅雨くらいからブツブツ言い始める
昔もそうだったかなぁと思い出そうとしたけれど、モヤがかかったみたいになってよくわからない。ただ「暑い日にはかき氷ですね」と言っていたのは覚えているから、やっぱり昔から暑いのは苦手だったんだろう。
「木陰の道を歩けば少しは涼しいよ」
「せめてアスファルトでなければ涼しいんでしょうけどね。いまの都会にそれを求めても仕方ありませんが」
「雨の日はアスファルトのほうが歩きやすいと思うけど、たしかに夏は暑いよね」
とくにお盆近くになると、むわっとした熱が下から舐めるように這い上がってくる。その感触は僕も苦手だった。
(そういえば、そろそろお盆の時期だっけ)
だからこんなに暑いのかもしれない。
土蔵の中では外の暑さを感じることがなかった。お盆の月は遠くから大勢の人たちの声がして、線香の匂いが一面に漂うものという認識しかない。それからもう一つ、お盆の頃になると蝉の鳴き声がとても五月蠅くなる。
(お盆近くになると、本当に蝉の声がすごいんだ)
まるで何かに取り憑かれたように鳴き始める。僕はいつも蝉の鳴き声で目が覚めて、そうして一日中蝉の声を聞いていた。狂ったように鳴く蝉の声を聞きながら、目を閉じたり開けたりをくり返した。
そのうち段々と蝉の声が小さくなっていった。小さくなって、それから聞こえなくなる。
(……あれ?)
五月蠅いくらい鳴いていた蝉の声が聞こえなくなった。立ち止まって耳を澄ませると、それまで聞こえていたいろんな人たちの声も聞こえない。車の音、バイクの音、それに少し離れたところにある商店街の音も、公園のそばの工事の音も、全部聞こえなかった。
「何も聞こえない」
シンと静まり返った世界に僕の声だけが響く。さっきまで暑かったはずなのに、なぜか暑さも感じない。
濃い緑色の葉が揺れている。だけど窓は天井近くだから風を感じることはない。風が吹いているのか誰かに聞こうとしても、
僕はただここにいるだけだ。ここだけが僕の世界で、ここには僕しかいない。
「シロウ」
どこかから声がする。誰の声だったかな。
「シロウ」
あぁ、そうだ、この声は僕の大好きな……。
「シロウ、大丈夫ですよ」
そうだ、大丈夫だっていつも教えてくれる声だ。僕は
「シロウ、わたしの声を聞いて」
そして、僕が大好きな人の声。僕が大好きで、僕を大好きだと言ってくれる大好きな声だ。
「……
「お盆が近いからか、いろんなモノたちが引き寄せられてしまいますね」
「引き寄せられる?」
「えぇ。シロウがあまりにかわいいから我先にとやって来るんです」
「……僕はかわいい?」
「とっても。かわいくて誰よりもきれいですよ」
そう言われて頬が緩んだ。
でも、きれいっていうのは少し恥ずかしい。体を撫でるときにいつも言われる言葉だから、そのときのことを思い出して顔が熱くなる。
「今日はもう帰りましょうか」
「うん」
いつの間にか夕暮れ時の空模様になっていた。日が落ちる前に帰らなくては。日が落ちてしまうと土蔵よりももっと遠くに引っ張られてしまうから、僕は日が落ちたら外に出られなくなる。
「もうしばらくすれば、夜になっても外に出られるようになりますよ」
「本当に?」
「えぇ。もう少し体が保てるようになれば平気でしょう」
よくわからなかったけれど「うん」と頷いて答える。
「秋には夜店に行ってみましょうか」
「よみせ?」
「秋祭りの出店です。夜、灯りの下でいろんなものを売っているんですよ」
「秋祭り……」
僕は一度もお祭りに行ったことがない。でも、もうすぐ行けるようになるかもしれない。そう思うとワクワクした。
「楽しみだね」
「えぇ、楽しみですね」
「じゃあ帰りましょうか」と差し出された手を握ったとき、ふわりと線香の匂いがした。
「
「念のためと思っていたんですが、役に立ちましたね」
「役に立った?」
足元を見たら三本の灰が見えた。灰の近くには蝶の形をした真っ黒な影がある。
蝶の形をしたものは、いつも
「周りを浄化するのにも役立つんですよ」
浄化というのは
「お線香ってすごいんだね」
「そうですね。さて、火の始末はきちんとしないといけません」
そう言った
きれいに並んでいた灰が、水に濡れてじわじわとアスファルトに広がっていく。まるでアスファルトが線香の灰を飲んでいるみたいだ。その隣で、真っ黒な蝶の影がふわふわと溶けていく。
「さぁ、帰りましょう」
「うん」
家を出たときにはミンミンと大騒ぎしていた蝉の声は、いまはカナカナという声に変わっている。その声が、なぜか少しだけ寂しく聞こえた。
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