1-2
長い間、頑なに開こうとしなかった土蔵の前に立った。中には揺らめく気配がする。間違いなく日記に書かれたあの子に違いない。
(さて、出てきてくれるといいんだが)
わたしと曾祖父はよく似ているらしいから、きっと出てきてくれる。そう思いながら扉の前に立った。
わたしの曾祖父が生まれた
明治の世になると絹や工芸品を海外に売り、海外の品物を国内で売る商売へと転じたことで、さらに店を大きくした。大正になる前には大豪邸を建て、大勢の使用人を雇い、国内外問わず時の権力者に品々を納めるほどになっていたという。
そんな
(
現代に生きるわたしにはその程度の認識だが、当時の家にとっては大問題だったのだろう。
はじめは近しい親族から養子をもらい何とか家を繋いでいたが、そのうち親族も減り、養子とした者にも子ができなくなった。それでも何とか手を打とうと思った先代当主は、子宝に恵まれていた京の古い商家から息子に嫁をもらうことにした。
その商家も子宝に恵まれない時期があったが、霊験あらたかな稲荷神社に参拝、寄進し続けた結果、子宝に恵まれるようになったらしい。その話は商売人の間では有名だったそうだ。
(眉唾だと思うが、藁にも縋りたい
当時の
さぁ、これで
(そんなこと、おもしろいわけがないか)
それを快く思わないのは、京から嫁いできた嫁・牡丹だった。どうしてもと乞われて嫁いできたというのに子はできず、あろうことか夫は他所に女を作り、そこに子が生まれた。
生まれてすぐの赤ん坊を
(さて、真相はどうだったのやら)
いまとなっては事件だったのか事故だったのか知る由もない。
こうして未亡人となった女主人に、
先代は従兄弟の子を養子に迎え、未亡人となった牡丹と結婚させることにした。表向きは亡き当主の弟に兄嫁が嫁ぐという形だ。
(最初はうまくいっていたと日記に書いてあったが、はたして本当にそうだったのか)
新しい当主は大層美しい顔をした優しい気質の男だった。二度目の結婚となる牡丹だが、すぐに新しい夫に夢中になった。前の夫は自分に構ってくれなかったが、新しい夫はいつも優しく気遣ってくれることに惹かれたのだろう。
ところがその夫は亡夫と妾との間に生まれた子どもをかわいがり、さらには関係まで持ってしまった。二人の関係を牡丹が目にしたのは、ちょうど亡夫の父である先代が亡くなり初盆を迎えるときのことだったそうだ。
牡丹の怒りは凄まじく、妾の子は庭の奥にある土蔵に閉じ込められた。何人たりとも近づくことを許さず、食事を与えることもなく、その後、妾の子がどうなったかは誰も知らない。
不貞を働いた二度目の夫には自分との子作りを強要した。その結果、
(そうした出来事が仄暗い噂へと繋がったのだろうな)
なぜ土蔵だけが残されているのか誰も知らない。昔から
そんな噂が絶えない土蔵にようやくたどり着いた。
「シロウ、出ておいで」
土蔵の扉の前で声をかける。もう随分と古い土蔵のはずなのに、鍵の付いていない扉は固く閉じられどうやっても開けることができない。大きな戦争を経験したはずなのに壁もひび割れ一つなく、屋根の近くにある小窓だけがへこんで見える。
(……これは線香の香りか?)
くんと嗅ぐと、ほのかに線香のような香りがする。おそらく盆の時期だからだろうが、なるほど噂どおりだ。
「シロウ、おいで」
頑丈で分厚い扉の向こうで、かすかな気配がゆらめいた。おそらくわたしの声に気づいているのだろう。
「シロウ、わたしのところにおいで」
気配がさらに揺らめいた。呼びかけに戸惑っているのか、自分のことがわからないのか、あるいはその両方か。
「どちらにしても必ず連れて帰る」と思いながら、鎖骨の下にある牡丹模様の痣を撫でた。わずかに疼くような気がするのは、この体に流れる血のせいだろうか。もしくは扉の向こうの存在を解放しようとするわたしへの怒りかもしれない。
「シロウ、大丈夫だから、わたしのところにおいで」
この手で撫でてあげるから。この腕で抱きしめてあげるから。もう二度と手放したりはしないから。
そう思いながら頑丈な扉に触れると、ギギ、ギギギと軋む音を立てて扉が開いた。扉の向こうには、真っ白な髪と灰青色の目をした小柄な青年がふわりと浮かんでいた。
助手席に座った青年がキョロキョロと大きな目を動かしている。たまに「あっ」と小さな声を上げてドアの窓に顔を寄せては、ハッとしたような顔をして慌てて前を向く。
その様子があまりにかわいくて、つい笑いそうになった。見るものすべてが珍しくて仕方がないのに、おとなしくしていないと叱られると思っているのだろう。まるで何も知らない無垢な少年のようだ。
(いや、あながち間違いではないか)
成人を迎えていると日記には書いてあったが、育った環境から中身は少年のままに違いない。「それなら、やはり慣れるまで田舎暮らしがいいか」と思いながら車を走らせる。
曾祖父から継いだ家は田舎町の端のほうだから慣れるのにはちょうどいいだろう。まずは環境に慣れ、社会に慣れ、知識と経験を得る。それから気配を保つこと、体を保つことを学べばいい。
「そういえば、まだ名前を言っていませんでしたね」
助手席の気配が少しだけ揺らいだ。
「わたしは
気配が揺らぎ、わずかにピリピリしているのを感じた。もしかして自分の名前を思い出せないのだろうか。そうなると、根底から考え直す必要があるが……。
「僕の名前……どうして、」
まるで囁くような声だったが、たしかに聞こえた。
(これなら大丈夫そうだ)
自我が壊れていないのなら大丈夫。わずかに口元が緩んだのは、日記に書かれていたシロウの様子を思い出したからだ。
「わたしの名前に、聞き覚えは?」
「……」
チラッと見た横顔は真剣に考えているような表情だ。なるほど、
「……あの人と、同じ名前、」
あぁ、ちゃんと覚えていてくれた。それだけで嬉しいという気持ちがじわりと胸に広がっていく。
「覚えていてくれて、ありがとう」
そう告げると、細く頼りなく、そして美しい少年の横顔がかすかに笑ったように見えた。
土蔵から曾祖父の家までは車で一時間くらいだ。曾祖父自身は死ぬまで土蔵の隣に住んでいたそうだから、実際には曾祖父の家というよりも相続した一部と言ったほうが正しいかもしれない。
すでに
「そのおかげで念願叶ったり、というわけですが」
広い庭に乗り入れた車を玄関の前に止め、助手席を見る。珍しいものに疲れたのか、すやすやと眠るシロウの顔があった。
「さて、抱き上げることはできるでしょうかね」
車を降り、助手席に回ってドアを開けた。音がしても目が覚めないのは、これまで留まっていた場所から遠く離れてしまったからだろう。それでも気配を保っていられるのは……。
「わたしが隣にいるからだと嬉しいんですが」
そうであってほしい。いや、そうであるに違いない。
そんなことを思いながら膝の裏に左手を入れ、背中と背もたれの間に右手を差し込んだ。そうして起こさないようにそっと持ち上げる。
「……これは、予想以上に軽いですね」
抱き上げられたことは僥倖として、この軽さは心許ない。早く体を保てるようにしなければ。
「さぁ、今日からしばらくの間、ここがわたしとシロウの家ですよ」
眠っている白い頬にキスをして、曾祖父が残した家へと入った。
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