第37話 お泊まりする佐藤④

 ケーキ作りがひと段落すると、佐藤はエプロンを片付けてからリビングに戻ってきた。ただし髪は縛っておらず、今は普段のようにストレートに伸ばしている。


 その髪を手櫛で梳きながら、ゆったりとした時間が過ぎていく。

 時折り佐藤がくすぐったそうに体を揺らすのだが、どうにも彼女は首のうしろ……うなじの辺りを触られるのが得意ではないらしい。それでもこうしてソファの上に座って「髪を撫でて欲しい」と言ってきたのは佐藤の方なので、嫌というわけではないのだろう。


 夕食までの数時間、もう予定は組まれていない。

 だからこうして、ただただのんびりとしているだけの幸せな時間が過ぎていく。


「気持ちいい?」


「……はい、とっても。気を抜くと、このまま眠ってしまいそうなくらいです。……やっぱり私、日向くんに髪を触られるの、好きみたいです。……えへへ」


 小さく幸せそうな声を漏らす佐藤。

 こうやってちゃんと気持ちを表現してくれるのが、俺には本当にありがたい。やり過ぎていないかという心配はもうほとんどする必要がなくなったものの、やっぱり表情や仕草で喜んでいるのが分かるに越したことはないのだ。

 それになにより、可愛いし。


「二十四時間、いつでも仰っていただければ。俺も佐藤の髪を撫でれるのは幸せだから」


「ふふっ。それなら私も、毎日しっかり髪のお手入れをしないといけませんね」


「そうだな。なんなら、学校がある日の朝は俺にブラッシングを任せて欲しい……なんて、さすがにちょっと気持ち悪いかな」


「そんなことないですよ。とっても、魅力的な提案です」


 毎朝、佐藤の髪に触ることができたなら……

 と、そんな俺の欲求を強くぶつけてしまった言葉にも、佐藤は優しく応じてくれる。


「でも、朝のお手入れは、私の準備時間と言いますか……その、日向くんに寝癖が立った状態では会いたくないので……っ」


「可愛いと思うけどな」


「……だ、ダメですよ、絶対」


「まあ、明日の朝を楽しみにしておくよ」


 そう言って少し笑うと、佐藤は俺の胸にこつんと背を預けてきてから無言で首をこちらに向けてきた。ムッとした表情で可愛らしく唇を尖らせ睨みを効かせてくるが、五秒もしないうちに我慢の限界に達したらしく、ふふっと笑って頬を赤く変化させる。


 そんな佐藤の首筋に、俺はそっと手を伸ばした。


「んっ……ひ、日向くん?」


 指先で軽く触れる。

 数日前に俺が噛んでしまった首筋には、今はもう傷ひとつ残っていなかった。絆創膏で隠す必要もなく、透明感のある綺麗な白磁色に戻っている。


「……長い間跡にならなくて、本当に良かった」


 俺がそう呟くと、佐藤は俺の目を見ながら小さく苦笑した。

 それから、首に触れている俺の手の甲に、自分の手のひらを重ねてくる。


「きっと私は、日向くんのこういうところが好きなんですね」


「……こういうところ?」


 俺が首を傾げると、佐藤は柔らかい笑みを浮かべた。


「私を助けてくれるくらい優しくて、かっこよくて、勇気があるのに……ちょっぴり心配性で、臆病な一面もあるところです。もしかしたら、親近感が湧くからかもしれませんね。ふふっ」


 冗談っぽく最後にそう付け足して、佐藤は可愛らしく笑みをこぼした。俺に背中を預けながら、すりすりと見上げてくるその笑顔は本当に堪らないものがある。

 ジッと佐藤と目が合った。


「なんでも話してください、日向くんっ。ほ、包容力とか……そういうのは、あんまりないかもしれませんが……それでも、日向くんの力になりたいっていう気持ちは、絶対に、誰にも負けませんから」


 そう言って佐藤はソファに座り直し、俺の手を握ってくれた。

 本当に優しくて、可愛い。

 しかしどうやら余計な心配をかけてしまったようだ。


「ありがとう。でも、聞いてもらうほどの悩みはないから、大丈夫だよ」


「……本当に?」


「ああ、本当」


 そう言って笑ってみせたが、佐藤はどこか納得がいってない様子で眉を顰めた。

 そんな佐藤に向けて、俺は両手を大きく広げた。


「佐藤、ハグしよう」


「な…………ず、ずるいです、それは」


 唇を尖らせながらも、肩を丸めて俺の腕の中に入ってきてくれるので、その華奢な体を優しく抱きしめる。


「……本当に、何もないんですか?」


「ないよ。そんなに悩んでそうに見えた?」


「い、いえ……ただ、なんとなくそんな気がしただけですけど……」


 短く言葉を交わしてから、佐藤の肩を掴んでゆっくりと顔が見える位置まで遠ざける。

 俺のことが心配だと、そう顔に書いてあった。


 ……敵わないな。


 そう思って苦笑する。


「……正直、まだ少し、責任を感じてたんだ。首のこと……佐藤が受け入れてくれてても、無理やり傷つけちゃったのは事実だから」


「む、無理やりだなんて、そんなこと……」


 佐藤はそのことを責めてきたりしなかった。

 それどころか、悪いのは自分だったとさえ言って、俺の行動を最大限、心から受け入れてくれた。


 許された。

 それ以前に、怒ってさえいなかった。

 でもそれは、佐藤の気持ちがあってこそ。


「もしいつか、俺がまた佐藤に同じようなことをしちゃった時……その時こそ、もしかしたら本当に、佐藤が望んでいないようなことをしちゃうかもしれない。怖がらせちゃうかもしれない。傷つけちゃうかもしれない。……そう思うと、すごく、怖かった」


 自分の意思とは関係なく……

 いや、もしかしたら、自分の意思が色濃く反映されてしまった行動を、佐藤の同意も得ずにしてしまったことこそ、俺がずっと許せないでいる俺の過ちなのかもしれない。


 罪と罰の話じゃない。佐藤に裁いて欲しい訳でもない。


 ただ、なんというか……怖いのだ。

 このまま関係を進めて行った先で、いつか佐藤を傷つけてしまうんじゃないかって……

 その一面が俺にはあるのだと、この間のことで思い知った。


「日向くん……」


「大丈夫。最後まで言わせて」


 まあ、しかし。

 ……というのが、佐藤と仲直りした後で、少しだけ思い悩んだ頃の話である。


 不安そうに眉を顰めている佐藤に、俺は笑顔を向けた。


「この前、佐藤が『ハグしたい』って言ってくれた時、俺……ものすごい幸せを感じたんだ。ああ、この人のこと、絶対に幸せにしたいって。傷つけるかもとか、傷つけたくないとか、そういうのじゃなくて……心の底から、佐藤と一緒にいられることが幸せだなって、そう思ったんだ」


 小さな体で、たくさんのものを抱えてて。

 それなのに、まだ人と話すのが怖かったであろう頃にも、痴漢から助けた俺にちゃんと頭を下げてくれて。

 根が優しくて、素直で、可愛くて……

 ちょっぴり心配性で、臆病で……

 でも、伝えたいことはちゃんと伝えてくれる、そんな佐藤といる時間が、堪らなく幸せだと感じられた。


「今日一日……まあ、まだ半日くらいだけど……それでも今日、佐藤と一緒の時間を過ごせて、俺は改めて確信した」


 ぎゅっと両手を握りしめる。

 そして、はっきりと告げる。


「好きだ。佐藤のこと、一人の女の子として……女性として。大好きだ」


「……っ!」


 佐藤は目を丸くして、息を呑んだ。

 俺も耳が熱くなる。


 今日一緒にいる中で、俺は佐藤といる時間を心の底から幸せだと感じられた。

 それは、佐藤が欲しいと本気で強く思っても、湧き上がってくる衝動以上に、佐藤と一緒にいられることの幸せを、何よりも強く感じられるほどだった。


 だからもう、大丈夫。

 恥ずかしいけど……

 臆病にならずに、素直に言える。



「俺と、付き合って欲しい。全力で────」



 全力で佐藤のこと、幸せにしてみせるから。


 と、そう言おうとした俺の口は……


「日向くんっ!」


 嬉しそうに俺の名前を呼ぶ声と同時に、柔らかい何かに塞がれた。


 柔らかい……それに、温かい。

 いや、むしろちょっと瑞々しい……ような……


「──ッ!?」


「好きです……日向くんっ! 私も、日向くんのこと大好きですっ!」


「ちょ、ちょっと落ち着いて──」


「無理です、だって……ずっと、待ってたから……っ」


 そう言うと、佐藤は再び俺の唇に……自分の唇を重ねてきた。

 裏唇が合わさる感覚に、とてつもない多幸感と安心感が同時に押し寄せてくる。胸の奥が満たされて、頭のてっぺんまで熱くなる。


 やがて、ちゅ……

 と、小さく生々しい音を立ててから、俺と佐藤は同時に唇を離して、今度はお互いの額を擦り合わせた。

 ふわりと佐藤が幸せそうに笑う。


「私で良ければ、喜んでっ。日向くんのこと、たくさんたくさん、幸せにさせてくださいっ!」


 いつにも増して上機嫌な声音で、佐藤は明るくそう言った。

 もっとも、嬉しそうに細められた瞳からは、もう既に涙が溢れ出ていたが。



 ……分かっていても、お互い緊張するものなんだな。


 ホッと胸中で安堵の息を吐いてから、俺は改めて、自分から佐藤にキスをした。

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