第32話 小さな過ちと佐藤
翌朝。
俺は再び、佐藤の家までやってきていた。
「おはよう」
『お、おはようございます……っ』
インターホンを鳴らすと玄関から佐藤が出迎えてくれるので、笑顔で挨拶を交わす。
迎えに来るのは今日で二日目だが、特に早起きの疲労感とかはなかった。
昨日に引き続き、佐藤は準備万端の制服姿だ。
ただし、今日は少し肌寒いからか、見慣れない紺色のカーディガンを羽織っている。
若干オーバーサイズ気味なのか、袖口から指先だけを覗かせて、サッと俺の手を掴んでくる。
「……中、入りましょ」
「あ、ああ」
俺が迎えに来るとはいえ、来るたびに佐藤に迷惑をかけるつもりはないので今日は少し遅めに来たのだが、それでも誘われてしまったら断ることはできない。
グイっと腕を引っ張られ、玄関の中へ連れられる。
そして扉が音を立てて閉まると同時に、佐藤が思いっきり俺の胸に飛び込んできた。
「おっと……佐藤、どうした?」
すりすり、と。
可愛らしく俺の胸に頬を押し当ててくる。
まるで親猫に頭突きする子猫みたいだな……なんて失礼なことを考えてしまうが、もちろん全く嫌ではない。
むしろ、心地良いし、嬉しいくらいだ。
俺は佐藤の背中に左手を回しつつ、右手で彼女の髪を優しく撫でた。
すると、佐藤は気持ちよさそうに小さく体を震わせて、艶のある声を漏らした。
「ぁ、んぅ……日向くん……っ」
「ここにいるよ。どうした?」
「んっ……その、特に理由はないんですけど……今日は会ったらこうしようって、決めてたんです。……ご迷惑でしたか?」
顔を見上げて、上目遣いで聞いてくる。
僅かに熱の籠ったその声音からは、言葉とは裏腹に、信頼と揶揄いと……微かな照れが感じられた。
「迷惑なわけないだろ? 嬉しいよ」
「ふふっ、やったっ」
前髪を撫でながらそう言うと、佐藤はふにゃりと笑って目を細めた。
あどけない無垢な笑顔。
それは不思議なことに今までで一番キラキラと輝いているようで、もう絶対に離さないとでも言うように、佐藤は俺をもう一度、強く抱きしめてきた。
蕩けるように柔らかい佐藤の身体からは、いつもの甘い香りが……
「……あれ? 佐藤、今日の香水っていつものと違うやつ?」
「わっ……すごいですね、日向くん。でも、なんと言いますか……はい。その……今日は、いつもの香水は、使っていません……っ」
「やっぱり、そうなんだ。比べるものじゃないかもしれないけど、俺はこの香り、すごい好きかも」
「……っ!?」
鼻に抜ける澄んだ香りの中に、微かに柔らかい甘みが含まれているような、そんな香り。
果物や柔軟剤とも少し違う。
息を吸うたび、胸がスッと軽くなる。
なんというか、非常に……好きな香りだった。
「あ、あ……あの、日向くん」
「ん?」
顔を真っ赤にして、佐藤が俺を見上げてくる。
そして一言、呟いた。
「今日、わたし……何もつけてません」
「……ん?」
「だ、だから……今日は私、少し前にシャワーを浴びただけで……」
そこまで言って耐えられなくなったのか、佐藤は俺の胸にコツンと軽い頭突きを喰らわせた。
「つ、つまり……日向くんが今、好きって言ってくれたのは……じ、純粋に、私のにおい……です」
「…………え」
「あ、で、でも……謝ったりしないでくださいね。そういう意味で言ったわけではありませんから。私は日向くんが……その……好き、って言ってくれて、とっても……とーっても、嬉しいです。ふふっ」
そう言って佐藤は恥ずかしそうにはにかみながら、再び俺のことを見上げてきた。
そしてなぜか、さらに軽く上を向く。
白い首筋が顕になる。
「日向くんなら……もっと嗅いでも、いいですよ」
そう呟いて、佐藤は目を閉じた。
心臓が跳ねる。
俺の脈が、跳ね上がる。
「……」
理性的になれ……
ここは佐藤の家だぞ、人の家でダメだろ……そんなこと……
そう思えば思うほど、ダメだった。
真っ白な首筋はあまりにも綺麗で、俺を信じて目を閉じている佐藤の姿はあまりにも官能的。
理性ではどうにもならない本能のようなものが、胸の奥から湧き上がってきた。
「……佐藤が、悪いからな」
「……え?」
呟いた俺に、佐藤は目を開けて首を傾げたようだった。
が、もう遅い。
「あ、あの、日向く……ひゃっ!?」
俺は佐藤の無防備にさらけ出された真っ白な首筋に、噛みついた。
佐藤の体が大きく跳ねた。
「え、え……んんっ、や、日向くんっ……ダメ、だめです……ぁぁっ」
少し噛む力を変えるたびに、佐藤から聞いたことのない嬌声が聞こえてくる。
「んっ……日向くん、日向くんっ……どうしたんですか……あっ、んんっ……し、正気に戻ってくだ、ひゃぅっ!」
最後に一瞬だけ舌を触れさせてみると、佐藤は再び大きく跳ねたのち、足から力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
俺はそんな佐藤の肩を押し、フローリングの上に押し倒す。
床に佐藤の長い黒髪が流れ、真っ赤に染まった耳が姿を見せる。
「はぁ……はぁっ……っ」
佐藤は呼吸を荒げ、目をとろんとさせていた。
その蕩けた表情がさらに俺の理性を削ってきたが、どうにか堪えて佐藤に顔を近づける。
そして、想いを告げる。
「佐藤彩音は、俺にとっては誰よりも綺麗で、可愛い女の子なんだよ。……可愛いって、今まで何度も伝えてきただろう? 大切なんだよ、俺は……佐藤のことが。だからもう、俺にこういうことをさせないでくれ」
「……で、でも、私は────」
「頼む」
目を見てそう強く言うと、佐藤はやがてゆっくりと首を縦に振った。
その日から二日間。
佐藤は"虫刺され"だと言って、首に絆創膏を貼って過ごすことになった。
同時に、その日から佐藤が俺に抱きついてくることはなくなり、日々の登下校は手を繋ぐだけになった。
そうして、ゴールデンウィークがやってきた。
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