第31話 Side: 佐藤真彩②

『お、お姉ちゃん……わ、私、メガネが欲しい』


『メガネ?』


 それは、彩音が中学に入学する前のことだった。

 時期で言えば、三月の下旬頃である。

 妹が突然、メガネが欲しいと言い出した。


『目、悪いの?』


『う、ううん……そういう訳じゃ、ないけど……』


『つまり、伊達メガネってこと?』


『そ、そう、伊達メガネ。お姉ちゃんが外に出る時に、つけてるようなやつが、欲しい……』


『え、これ……?』


 机の引き出しから、不恰好な黒縁メガネを取り出す。

 彩音はこくこくと頷いた。


『これ、変装用のやつだよ? あたしが佐藤真彩だってみんなに気づかれないようにするために、わざと一番似合わない、可愛くないやつを選んでるんだけど……』


『そ、そう、それ……そういうのが欲しい』


『どうして? 彩音ちゃんはアイドルじゃないでしょ?』


『……あ、彩音、ちゃん?』


 妹は首を傾げた。


『あー、ごめん、嫌だった?』


『う、ううん、びっくりしただけ』


『そう、なら良かったぁ。あたしももう高校生になるからねー。この歳になると、中学生なんてまだまだ子供みたいなものだから。……それにほらぁ、彩音ちゃんって響き、可愛いでしょ?』


 そうは言ったが、実際は全然違う。

 この意味不明なちゃん付けは、あたしなりの荒療治なのだ。

 あの日以降、傷ついたままの妹の心を、回復させるための。


 ちょっとした乱暴……というほどじゃないけれど。

 『あんまりバカにしないでよ、お姉ちゃん』と、言って欲しかった。


 しかし、妹は苦笑して、頷いた。


『あーっと、それで、メガネが欲しいんだよね? 似合わないやつ』


『……うん』


 気まずい空気が流れる前に話題を戻し、あたしはなんとなく頷いてしまった。


『よしっ! じゃあお姉ちゃんが、彩音ちゃんに一番似合わないメガネを買ってあげよう!』


 妹は、可愛い。

 それも、飛び抜けて可愛い。

 なら、外で周りの視線に悩まされることだってあるのだろうと、勝手にそう解釈した。

 アイドルとして、変装のプロとして、完璧に似合わないメガネを選んであげようと決意した。



 そして、彩音は中学生になった。

 あたしも高校生になり、仕事の幅も増えていく。

 本名が筒抜けになっている学校では変装なんて意味を成さなかったが、それでもアイドルをしていたおかげで友達にも会話の話題にも困ることはなかった。


 楽しい日々。

 充実していた。


 が、一ヶ月ほどが過ぎた頃。

 あたしが仕事と高校生活にかまけている間に、彩音は変わり果てていた。


 活気がない。

 猫背で幸薄、笑顔も滅多に見せてくれない。

 たまに笑ったと思ったら、頬が引き攣ったような作り笑いがほとんど。

 あんなに綺麗だった黒髪も、伸びるだけ伸びているばかりで、ボサボサになっていた。


 そして、極端に外出を避けるようになった。

 学校以外では全く外に出なくなったと言ってもいい。

 あたしやお母さん、お父さん……家族以外と話している姿をまるで見ることがなくなった。


『ねえ……最近、大丈夫?』


 そう尋ねても、下手な笑顔で頷くだけで、話してくれなかった。


 結局、中学での3年間、彩音は心を閉ざし続けた。


 小学校でのことを気にしているんだ……

 と、そんなことは明らかだったけれど、彩音が一番嫌がる"怒り"を以前、簡単に見せてしまったあたしにはどうすることもできなかった。

 かといって、彩音が話していないのに、お父さんやお母さんに頼ることもできない。


 いや、もしかしたら、頼るべきだったのかもしれない。

 だけど、あたしは……

 両親の血を濃く受け継いだ佐藤家の長女として、あたしは、あの二人が彩音に悪さをしたやつのことを聞いて、ジッとしていられるとも思えなかった。


 過保護。

 世間知らず。


 そう言って批判してくる亡霊と、あたしは頭の中で何度も戦った。

 それでも、当事者としては……

 時間が解決してくれることに、賭けるしかなかった。



 そうして、時間が経ち……

 彩音は高校生に、あたしは大学生になった。


 彩音の中学生活は、側から見ても完全に色のないものだった。

 友達一人すらできていない。

 それはもうあの子の姉として、日々の様子から明らかだった。


 高校は……高校からは、どうか、そうならないで欲しい。

 そうやって、どれだけ祈ったことか。


 だって、人生で一番楽しい時期なんだ。

 あるいはそうでなかったとしても、女の子にとって女子高生としていられる3年間は、人生においてとてもとても大切な時期であることは間違いないのだ。

 勉強も、遊びも……恋だってするかもしれない時期なのだ。


 だから、どうか……

 どうか彩音が、笑って過ごせる高校生活になりますように……


 そう祈っていたあたしのもとに、お母さんから電話がかかってきた。



"彩音が、痴漢の被害に遭ったらしい"



 聞いた途端、頭が真っ白になった。

 仕事中だったけど、ひと段落ついていたこともあり、あたしは事情を説明して家に帰らせてもらった。


 きっとまた、蹲って泣いている。

 なんて言葉をかけようか……

 今度こそ、正しく彩音の味方にならなければ。


 そう思って帰宅すると、彩音は意外にも平然とした様子で夜ご飯を食べていた。


『あ……お姉ちゃん、おかえり』


 彩音は笑顔でそう言った。

 意味が分からなかった。

 しかも、最近の引き攣った笑いじゃない。

 昔を面影を感じるような、柔らかい笑顔だったのだ。

 ますます意味が分からなかった。


 それから話を聞いて、あたしは少しだけ安堵した。

 彩音は痴漢被害には遭ったが、どうやら近くにいた人が助けてくれたらしい。

 曰く、クラスメイトの『日向くん』。

 その人おかげで、被害も最小限で済んだのだ、と。


 嬉しかった。

 自分でも信じられないくらい、誰かが彩音を助けてくれたことが嬉しくてたまらなかった。

 顔も知らない、会ったこともないその人……日向くんのことを考えると、涙が出るほどだった。


 それから彩音は変わり始めた。

 いや、正確には、心を取り戻し始めた。

 昔の彩音に、戻り始めた。


 そして驚くべきことに、一週間も経たないうちに彩音の髪は全盛期並みの光沢を取り戻した。

 表情も豊かになり、再び可愛く笑うように。

 性格も、少しずつ自信を取り戻していくように変化していき、怯えたような目や喋り方をほとんどすることがなくなった。


 ……本当に、意味が分からなかった。


 あたしが散々悩んできたことを、何かが……いや、誰かがいとも簡単にやってのけたのだ。

 彩音に、昔の活力を取り戻させてくれたのだ。


 誰がそれを成したのかは、彩音が名前を呼ぶときの笑顔から明らかだった。



 日向くん。



 その人が、彩音を救ってくれた。

 救ってくれたんだ……


 痴漢からだけでなく、小学校の頃の、深い傷からも。




 日曜日。

 仕事帰りに、あたしは駅で彩音を見かけて声をかけた。

 信じられないことに彩音は男の人と一緒で、ショッピングにでも行ったのか、その人の手には大きな紙袋がいくつもぶら下がっていた。



 背格好の良い、かっこいい人。

 最初の印象はそんな感じだった。

 着ている服もよく似合っていたから、きっとファッションに興味があるか、あるいはそういう人が身近にいるのだろう。


 急に彩音に声をかけたあたしを一瞬だけ警戒した様子だったけど、彩音の知り合いだと分かるとすぐに穏やかな表情に戻る、大人びた適応力も持ち合わせている。

 あたしが少しウザい感じで絡んでも、それを嫌がる素振りは見せなかった。


 正直あの時、あたしは少しパニックなっていた。

 だって、まず、彩音が休日に外にいる。

 そして次に、どうやら友達を連れている。

 さらにさらに、そいつはまさかの男で……


 何より、彩音があたしの選んだ"似合わないメガネ"を掛けていなかった。


 それはつまり、人と関わりたいと思い始めた明確な証拠だった。


 可愛い自分を誰かに見てもらいたい。

 誰かの隣に、全力の自分で立っていたい。


 と、そういうことだった。


 それからあたしは、彩音の隣に立っている男の人が例の"日向くん"だと知って、いよいよおかしくなりそうだった。

 『デートだったの?』と揶揄うと、彩音は恥ずかしそうにそれを否定したが、少しだけ満更でもない様子で日向くんの反応を伺っていた。


 これは……"そういうこと"なのか。


 あたしはその時、初めて女の勘というやつは実在したんだと実感した。


 彩音に友達ができた。

 それどころか、恋までするようになった。

 その事実が、あたしは堪らなく嬉しかった。


 だけど、小学校のこともある。

 日向くんが本当に彩音を想ってくれている良い人かどうか、姉として疑う義務があった。


 結果は……問題なし。

 なんなら自然と、さりげなく彩音を気遣う言動が度々見受けられるほどだった。

 あたしはこれでも人生のそこそこ長い時間を芸能界で生きてきた。だから、裏がありそうな人や根が腐っている人間を見抜ける自信くらいは人並み以上にある。

 そのあたしが見ても、日向くんは優しい人だった。


 それが彼の"友達"に対する向き合い方なのか、あるいは彼も彩音を恋愛的に見ているのかは彼の態度からじゃ分からなかったけど、日向くんが彩音を大切に思ってくれていることだけはひしひしと感じられた。


 だから、あたしは日向くんに伝えたのだ。


『あの子の隣にいてあげて』


 それに対して、彼は二つ返事で頷いてくれた。

 本当にいい子だなって、改めてそう思った。



 彩音は変わった。

 変わり始めた。

 元のあの子に戻り始めた。


 だけど、彩音と日向くんの様子を見て、あたしは確信した。


 あの子は、自分だけの力で変われたわけじゃないのだ。

 彼が……日向くんが欲しくて堪らなかったから、そのために再び身なりに気を使うようになり、暗い雰囲気でいることをやめようとしているのだ。


 だとするとあの子は、まだ過去に勝ててない。


 もし日向くんが彩音のそばを離れてしまったら、再び中学時代に逆戻りしてしまう。

 それだけは、絶対に嫌だった。

 せっかくまた明るく笑うようになってきたのに。

 せっかく元気そうになってきたのに。

 またあの子が人を怯え始めてしまったら、今度こそあたしはあの時、怒鳴ってしまった自分が許せなくなる。


 だから、日向くんが彩音の隣に居続けてくれるのなら、その理由は最悪、アイドルであるあたしとお近づきになりたいとか……そういうのでも構わないと思っていた。

 ……でもまさか、あたしのことを知らないなんて。

 これでもメディア露出はそれなりに多くなってきたんだけどな。


 ちょっとだけ彩音に負けた気がした。


 でも、それが堪らなく嬉しかった。





 そうして時間は現在にまで追いつき……


「ねえ、お姉ちゃん」


「んー? こんな時間に珍しいね。どうしたの?」


 時刻は深夜0時過ぎ。

 いつもならとっくに寝ているはずの時間帯に、彩音はあたしの部屋を訪ねてきた。


 目が少し赤い。

 でも不思議と、心配になるような様子じゃない。

 ふわふわと、幸せオーラを漂わせていた。

 穏やかな表情で、僅かに頬も紅潮している。


 少し前まで彩音の部屋から話し声が聞こえていたけれど、この様子だと、日向くんと電話でもしていたのかな?

 それでこんなに熱っぽいのだろうか。


 だとしたら……もう……

 あたしは日向くんに頭が上がらない。


(……本当に、ありがとう)


 自然と自分の頬が緩むのを感じながら、あたしは彩音に穏やかな表情を向けた。

 彩音は少し恥ずかしそうに唇を震わせた。

 それからゆっくりと呟く。


「その……男の人って、どういうことをしたら喜んでくれるのかな?」


「…………へ?」

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