第30話 Side: 佐藤真彩①
彩音はすごく良く笑う子だった。
その可愛さも、優しさも、文句なしにあたしの自慢の妹だった。
もちろん、自慢の妹であることは今も変わりないけれど、それでも昔はもっと明るくて可愛い子だった、と……そんなニュアンスだ。
あたしが小学校1年生の頃。
夏休みの宿題で、アサガオを育てて絵日記をつけるというものがあった。
葉が大きくなり、花が咲いた時、飛び跳ねて喜んだのはあたしじゃなくて、あの子のほうだった。
あたしも嬉しくなかったわけじゃない。
それなりに手間暇かけて育てたわけだし、咲いた花も綺麗だったから、普通に嬉しい気持ちはあった。
でも、それよりも……
あたしは、小躍りして喜んでくれた妹の笑顔の方が、何倍も嬉しく感じた。
それからすぐに、彩音も小学生になった。
あの子は昔から頭が良かったのに、あたしと一緒の学校がいいって言って同じ学校に入ってきた。
あの子なら、有名な大学まで直通の学校にも、きっと確実に入れたのに。
でも、嬉しかった。
可愛かった。
どんな時にも後ろをついてくる可愛い妹。
『妹さん可愛いですね』って、大人の人に言われるのが好きだった。
夏休みになると、彩音も家にプランターを持ってきた。
アサガオの宿題だなってすぐに分かったから、あたしはまた妹の飛び跳ねる姿が見れると思って毎日眠るのが楽しみになった。
毎日早起きをして、せっせとお世話をする彩音。
そして葉が大きくなり、ついに花が咲いた。
『やったじゃん彩音! あたしの時よりも、綺麗なお花が咲いてる!』
『うん。咲いてくれて、よかった』
思いのほか、彼女は落ち着いていた。
頬を緩め、目を細めていたから、喜んでいるのは分かったけれど……飛び跳ねたりはしなかった。
『どうしたの? 嬉しくないの?』
あえてそう聞いた。
あの子はゆっくり首を左右に振った。
『ううん、嬉しいよ。でも……』
『でも?』
『お姉ちゃんのやつが咲いた時の方が、もっともーっと、嬉しかった。……うーん、なんでだろう?』
『……っ! も〜、彩音っ! 好き、大好き!』
『ちょ、ちょっとお姉ちゃん! 髪ボサボサになっちゃうっ!』
鳥肌が立った。
ああ、この子は、可愛いだけじゃないんだ……
根本的に、根っこの部分から優しいんだ。
自分の成功よりも、親しい人の成功を喜べる優しい子なんだって、あたしは子供ながらに理解した。
外見だけじゃない。
心まで、純粋に、綺麗なんだ。
少しだけ、次元が違うなって思った。
だってあたしは、飛び跳ねることができなかったから。
それから、中学校に入学した。
ここからの3年間で、あたしの人生が激変する。
彩音は小学4年生になり、その美貌は幼さだけから来るものではなくなった。
整った鼻梁、大きな瞳、長いまつ毛。すでに胸も膨らみ始めていて、高校……あるいは中学に入る頃にはとてつもない美少女になっているだろうという雰囲気が漂っていた。
中でも一番綺麗だったのは、間違いなくあの黒髪だろう。
肩上ほどのセミショート。
もしかしたらボブに近かったかもしれない。
色は漆黒。
とても澄んでいて、綺麗だった。
でも何より、その圧倒的なまでの美しさの根源は、毎日の丁寧なブラッシングと手入れからくる最高レベルの髪質だった。
遺伝の話は、まあ、それなりにある。
あたしと彩音のお母さんは高校と大学で雑誌のモデルをしていた時期があるらしく、だから生まれながらの髪質はかなり良かった方だと思う。
でも、それならあたしも同じになるはずなのだ。
彩音みたいに細くて、ふわふわで、柔らかい……なのに全然弱くない髪を、あたしも持っているはずなのだ。
それでも同じにならなかったということは、生まれた後で、髪に対する丁寧さに大きな差があったということだろう。
事実、あの子が髪の手入れを怠っていた日を、あたしはその頃一度も見たことがなかった。
しかし……
自分で言うのもなんだけど、あたしもそれなりに見た目には気を遣っていたので、結構可愛い方だった。
小学校を卒業するまでには片手じゃ数えきれないほど告白されたし、中学に入ってからも、最初の夏休みを迎える頃には高嶺の花扱いだった。
ある日、あたしと彩音は、両親に連れられて東京へ遊びに行った。
けど、彩音は人ごみがダメだった。
すぐにリタイアし、同じく人ごみが苦手だったお父さんと二人で喫茶店へ。あたしとお母さんの実質二人となった。
『アイドルに、興味はありませんか?』
『……え?』
それは、突然のことだった。
街中を歩いていたら、突然、知らない人があたしに名刺を差し出してきた。
お母さんが間に入り、そしてすぐに、有名な事務所へのスカウトだと判明する。
一瞬だけ悩むそぶりを見せたお母さんだったけど、あたしがもう中学生だったこともあって、決定権はあたしに委ねられた。
『……どの辺が、良かったんですか? あたしの』
アイドルは、可愛さで戦う職業だ。
そしてあたしは可愛さで、彩音に絶対敵わない。
短く顎に手を当ててから、スカウトの人はあたしに言った。
『笑顔です。あなたの笑顔には、周りをキラキラさせる力があると感じました』
『はあ……』
あたしは眉を顰めた。
が、我が子を褒められたお母さんが、調子に乗って『そうねぇ、その通り!』とか『あなた見る目があるわね』とか言い出して、あたしは大人二人の圧力に負けた。
そのことをお父さんと彩音に報告する。
すると、お父さんは嬉しそうに『無理せず頑張りなさい』とだけ言い、彩音は人ごみに当てられていたのが嘘のように、飛び跳ねて大喜びしてくれた。
諸々の手続きを済ませ、あたしはアイドルになった。
といっても、肩書きだけだけど。
レッスンの日々が始まった。
率直に、地獄。
もともと運動はそれなりにできる方だと思っていたけれど、アイドルに求められる体力は格が違う。
それでも事務所が良かったのと、もともと人と喋ったり歌ったりするのは好きだったので、やめたくなるほどではない。
くたくたになって家に帰り、ご飯とお風呂を済ませたらすぐに寝る。
起きたらすぐに学校へ行き、終わったらまたレッスン、それが終わったら家に帰っての繰り返し。
しばらくした頃になって、少しずつお仕事が入り始める。
そして、あたしの毎日から、少しずつ家族が遠ざかっていく。
そんな日々が、2年ほど続いた。
いつのまにか彩音の小学校卒業が近づいていた。
同時に、あたしの中学卒業と、高校入学も。
そんな、ある日のことだった。
冬も真っ盛りという中で、彩音が学校から帰ってこないという、事件が発生した。
その日、あたしは珍しくレッスンも何もなく、早くから家にいたのだが、最初に異変に気づいたのは仕事から帰ってきたお母さんだった。
今思えばバカな話だけれど、あの時のあたしは彩音が部活に入ったんだと思い込んでいた。あの学校は5年生から委員会や部活動があるので、それだろうと。
そのくらい、彩音との関係が希薄になっていた。
異常事態だと知り、あたしは外に飛び出した。
お母さんは家で待機。
行き違いを防ぐためであるが、心配のあまり赤信号にも突っ込みそうな勢いだったのが最大の理由である。
今まで彩音が家族に迷惑をかけたことなんて、一度だってありはしなかった。
ましてや『帰ってこない』のがどれだけ家族を不安にさせるか、賢いあの子は当然のように理解しているはずだった。
……と、不安になったのも束の間。
彩音は意外とすぐに見つかった。
最寄りの公園の、ドーム状の遊具の中。
暗く、冷たい場所で、あの子は膝を抱えて泣いていた。
『ぁ……』
言葉が出なかった。
が、小さく漏れた声を拾うと、彩音はビクッと肩を大きく跳ねさせた。
顔を上げ、腫れきった目を懸命に開いて、あたしのことを認識する。
『お、お姉ちゃん……わ、わたし……』
呟いてから、彩音は大きく咳き込んだ。
久しぶりに息を吸ったようだった。
上着を貸し、抱きしめて、なんとか体を温めながら話を聞こうと試みる。
『ぁ……ぁ……あの、……え、えっと……』
酷く怯えたような声。
誰かに、乱暴されたのか。
妹の可愛さから考えて、一番可能性の高そうなものはそれだろうと思ったが、尋ねてみると、違うと首を左右に振った。
しばらくして彩音の震えが小さくなってくると、あの子はゆっくりと、少しずつ話を聞かせてくれた。
同級生の男の子から告白を受け、断ったら、最低最悪な暴言を吐かれた、と。
いや、正確には少し違うかな。
彩音の言い方は、もっと相手を気遣うような、柔らかいものだった。
これはあたしの感情が多分に含まれている。
でも、事実は、そういうことだった。
『優しくして損した』だなんて、信頼を裏切る最悪なセリフを、どっかのクソガキが、あたしの妹に吐きやがった。
『……誰、そいつ』
『……え?』
『そいつの名前は!? 今からそいつの家に行って、あたしがそいつのことぶん殴ってやるッ! 絶対に許さない……あたしの妹に言ったこと、死ぬまで、一生後悔させてやるッ! …………あ、いや、ちが』
『う、うあ、っ、あ、あぁ……』
気づいた時には後の祭り。
彩音は声をあげて泣き出した。
あたしの、人生最大の怒りだった。
でも、その感情を最初に出していいのは、他でもない彩音本人だけだった。
それなのに、あたしは……やってしまった。
彩音は終始、柔らかい言葉遣いだったのに。
あの子の心は、人を傷つけることに耐えられないのに。
そのことがどれだけ影響したのかは分からないけれど、それから彩音は元気に笑うことがなくなった。
お母さんの心配に対しても、『なんでもない』の一点張りになってしまったので、あたしが説明することに。
『同級生の男の子に、悪口言われちゃったみたい』
そうやってあたしは、今度こそ妹の意思を尊重した。
彩音の卒業式があった日の夜。
彼女の部屋から、あの日と同じような泣き声が聞こえてきた。
後日、嫌な予感がして彼女のアルバムを確認してみると、最後の空白ページにマーカーで、あの日妹から聞いたのと同じ言葉が書かれていた。
『優しくして損した』
クラクラした。
最悪だった。
でも、妹がそうしていないのに、あたしが怒り狂うことなど許されるはずがない。
大事なのは、あの子が再び元気に笑うようになることだ。
復讐なんて、あの子は望んでいない。
グッと堪えて、あたしはアルバムを本棚に戻した。
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