第33話 触れ合う心

 さて。

 ゴールデンウィークの前半は、家でだらだらとすごしているだけであっという間に過ぎ去った。

 そして今日から三日間、もはやゴールデンウィークと呼んでいいのかもわからないが、普通の平日が始まる。

 これを過ぎれば、金曜日、憲法記念日。

 要するに祝日で、四日間のゴールデンウィーク後半戦が始まるのだ。

 そして、佐藤とのお泊まりも、金曜日から始まることになっている。



「おはようございます、日向くん」


「おはよう」


 挨拶を交わし、微笑んだ佐藤に手を引かれて、俺は彼女の家に再び足を踏み入れた。

 最近ではもうすっかり佐藤からお茶をご馳走になるのが、俺の朝のテンプレートになっていた。


 佐藤の部屋に通され、しばらくすると佐藤がお茶を運んでくる。


「毎日ありがとうな」


「いいえ、好きでやっていることですから。日向くんこそ、毎回付き合ってくれて、ありがとうございます」


 そう言って佐藤は、ふわりと綺麗な笑みを浮かべた。



 あの日。


 佐藤の首筋に歯を立てて、押し倒してしまったあの日から、少しだけ気まずい空気が流れることが増えてしまった。

 今だってそうだ。

 お互い気にしていないように笑顔を作っているが、その実、短い沈黙が流れるだけでももじもじと体が揺れる。


 別に、怒っているわけじゃない。

 嫌いになったわけでももちろんない。

 ただ、ごめんなさいが言えていないだけ。

 言っていいのか、悩んでいるだけ。


 正直、もしまた佐藤に同じように攻められたら、我慢できる自信はほとんどない。

 あれだけ佐藤を傷つけまいと誓っておきながらのこの体たらくっぷりには我ながら心の底からガッカリだったが、だからこそ佐藤には、日向薫も100%安全な存在ではないんだと知って欲しかった。

 俺だって、普通の男子高校生並みの性欲くらいは持ち合わせているのだから。


 日々可愛くなっていく佐藤に、日を追うごとに扇情的な性格になられては、男としてはたまったものではない。


 しかし、佐藤その態度を……

 その気持ちを、嬉しいと思ってしまう自分がいるということが、佐藤を傷つけないという点においては、どうしようもなくダメだった。


 手を繋ぐだけならいい。

 抱きしめるのも我慢できる。

 でも、それ以上は……

 佐藤が相手では、どうしようもない。


 そんなことを考えていると……


「あの、日向くん……ごめんなさい」


 そう言って、不意に佐藤が頭を下げてきた。


「この間のこと……あれは私が、日向くんの気持ちを考えていなさすぎました。そ、それに……謝るのが遅くなってしまったことも……ごめんなさい」


 小さな両手をぎゅっと握りしめて、肩を微かに震わせる。


「佐藤が謝ることじゃない。あれは俺が……色々と、悪かった」


「い、いえ、そんなこと……」


「そんなことあるよ。ごめん」


「……違います。そんなこと、ないです」


「ある」


「ないです」


「あれは男が、女の子に一番やっちゃいけないことだった」


「違いますっ!」


 ピシャリと佐藤が言い放ち、俺は思わず背筋を伸ばした。


「ぁ、ご、ごめんなさい……大声を出すつもりじゃ」


 そう言って今度はしょんぼりと肩を落とす。

 しかし、すぐに顔を上げると、何を思ったのか両手を大きく広げた。


「日向くん。ハグ……しましょう?」


「……」


「……ダメですか?」


「……」


「……やっぱり、私の一番の罪は、ここですね」


「……佐藤?」


「日向くん。私に、チャンスをください」


 俺が眉を顰めるのとほぼ同時。

 佐藤は小さくそう呟いて、ゆっくりと、広げた両手を俺を頭に回した。

 それから……ふわり、と。

 気づいた時には俺の頭は、佐藤の胸に抱き寄せられていた。


 今まで意識しないようにしていた豊満な柔らかさが、俺の顔に押し当てられる。


「私が一番謝らないといけないのは、これです」


「……これ?」


「私はあの時、日向くんを煽るようなことをしておきながら……いざされたら、日向くんを……大好きな人を拒むようなことを、言ってしまいました。これは、女の子が……好きな男の子に、一番してはいけないことでした」


「……佐藤?」


 名前を呼んでみたが返事はなく、佐藤は自分の言葉を続ける。


「びっくりしたって、そういう言い訳は、あります。でも、それで日向くんを傷つけてしまっては、私は……もう、自分のことが嫌いになりそうで……」


 震える声。

 小さく、鼻をすする音がした。


「……っ、だから、もう一度、ちゃんと言わせてください。……ごめんなさい、日向くん。私はもう、絶対に、二度とあんな風に日向くんを拒みません。これは私が我慢するとか、無理をするとか、そういうことではなくて……私の本心が、日向くんを拒みたくないって、本気で思っているんです」


 それは今まで聞いたことがないほどに、強く、力のある声だった。

 同時に、色んな感情が入り混じったような深い声でもあった。


「私は今までに二回、すごく嫌なことを経験しました。一度目は小学校の裏庭で……二度目は通学の電車の中でのことでした。その両方が、きっと、私の容姿や体に関することが原因で……今でも正直、誰かに体を触られるのは……少しではなく、怖いです」


 小さく体を震わせて、心の内を吐露していく。


「日向くんがたくさん励ましてくれたから、心の方はもう、大丈夫になってきたんです。本当に。……でも、実際に触られると、体の方は嫌でも固まってしまうんです。そんなつもり全然なくっても、怖かった思い出を、体が真っ先に思い出してしまって……。でも、それでも、日向くんだけは、大丈夫だったんです。手を繋ぐのも、抱きしめてもらえるのも、全部。むしろ心が温かくなって、すごく……好きなんです」


 柔らかい声音。


「きっと、日向くんは、私のことをすごく大切に思ってくれているんですよね。自分で言うことではないかもしれませんが、それだけは本当に、とってもよく伝わってきますから。……だから私を傷つけないように、慎重に、様子を見ながら、私に触れてくれるんですよね。嫌がってたらすぐやめようって、ちゃんと私のことを想ってくれてるから……」


 佐藤の柔らかい手が、俺の髪をゆっくりと撫でてくる。


「それなのに私は、この間、驚いちゃいけないタイミングで驚いてしまいました。せっかく日向くんが私を求めてくれたのに……心の準備が不十分で、本当に……ひどいことをしてしまいました。でも、そのおかげで、一つ大きな決心がつきました」


「……決心?」


「はい。決心です」


 そう言って佐藤は俺の両頬に手を添えて、優しく頭を持ち上げた。

 初めて、佐藤を下から見上げる形になる。

 佐藤はふわりと花のような笑みを浮かべた。


「これからは、日向くんにして欲しいことは全部、ちゃんと言葉にして伝えます。そうすれば私はちゃんと心の準備ができますし、日向くんも、気を使う必要は一切なくなります」


 だから、ほら……

 佐藤はそう言って俺の手を引き、立ち上がった。

 そして両手を大きく広げる。


「私は日向くんに、抱きしめられたいです……っ」


「……ああ、わかった」


 拒否することなど、できるはずがなかった。

 何より、する必要がなかった。


 佐藤の腕の中に飛び込み、彼女を思いっきり抱きしめる。


「ここ数日……ハグできなくて、寂しかったです」


「俺もだよ」


「本当ですか? ふふっ……あぁ……それなら本当に、良かったぁ……っ」


「……ごめんな、佐藤」


「……っ、だからぁっ……日向くんが謝ることじゃ……ないんですって……っ、うぅ……っ」


「それでも、ごめん」


「うぅ……ぁぁ……もう、本当に……また泣いちゃうから……やめてくださいよ……っ」


「じゃあ、もう謝らない。けど……」


「わ、ぁぁ……ぁぁぁ……っ」


 俺はゆっくりと、佐藤の背中をさすった。

 途端にダムが決壊したように、佐藤が声をあげて泣き始める。


 俺と佐藤の間にあった、透明な薄い壁。

 触れることも、見ることさえもできなかったそれは、それでも確かに存在し、俺と佐藤を確実に阻み続けていたのだが……


 その壁は、今、完全に消滅した。


 勇気を持って佐藤が踏み込み、必要ないと言って、綺麗さっぱり取り壊してくれた。


 なら……


 そこから先。


 ようやくお互いの心に触れ合い、寄り添えるようになった俺たちが踏み出す、最後の一歩。


 それはきっと、俺の役目だろう。


「なあ、佐藤」


「……っ、うぅっ……はい、はいぃ……っ」


「あー……えっと……」


 しかし、今は少しだけ、間が悪いかもしれない。


 それに、今日はまだこれから学校がある。

 伝えるなら、その日その後に何の予定もなく、一緒に過ごせる時がいい。


「今度のお泊まりの時……佐藤に伝えたいことがある」


「……は……ぅ、あ…………うそ……っ」


「嘘じゃない。だからできれば、心の準備を、しておいて欲しい」


「あ……ぁぁ、ふふ……うぁ、ふふっ……あ、あぁぁ……」


「それは泣いてるのか笑ってるのか、どっちなんだ?」


「うぅ……っ、もうっ……ほんとうに……ばかぁっ」


 言うタイミングが悪すぎたことを可愛らしく批判して、佐藤はそれからしばらく俺の腕の中で嗚咽を漏らした。



 そうして俺たちは、ついに金曜日を迎えた。

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