第23話 通話と佐藤

「ふわぁぁ……」


『日向くん、眠かったら寝ても大丈夫ですよ』


「いや、まだ平気」


 高校デビューを飾った佐藤をちゃんと一日見届けた、その日の晩。

 気を張っていた疲れは夕飯とお風呂で癒したつもりだったが、ついあくびが漏れてしまう。


 まあ、俺の疲労はどうでもいい。

 時計を見てもまだ9時過ぎで、眠るには少し早い。


「俺よりも、佐藤の方が疲れてるんじゃない?」


『私は全然大丈夫です。……今日の興奮がまだ残ってるみたいで』


「そっか」


 約束はしていなかったが、お風呂上がりに佐藤からメールで『少しお話ししませんか?』と誘われた俺は、現在自分の部屋のベッドに座って彼女と通話中だった。

 通話といっても目的は特にないらしく、ただ俺の声が聞きたかっただけだと言われている。


 これが湊相手だったら通話をスピーカーにして読書と並行するのだが、佐藤が相手となるとスマホは耳に当てていたい。


 俺だって健全な男子高校生。

 理由は言うまでもないだろう。

 天使が鈴を鳴らしたような心地よい声が耳元で揺蕩う。


『今日はその……お昼、ありがとうございました』


「ああ、全然……」


 通話を始めてからもうすぐで三十分。

 ずっと今日のことは話題に上がらず雑談メインだったが、ついに佐藤から切り出してきた。


『日向くんの身体、あったかかったです。今でも鮮明に思い出せます』


「……勘弁してくれ」


『ふふっ、ごめんなさい』


 どんな顔で笑っているのか。

 見えないけど、ちょっと想像できてしまう。


 楽しげに、儚げに。

 きっとそういう感じだろう。


 俺としてはお昼のことはなるべく思い出さないで欲しいんだが。


『……その、日向くんは、どうでしたか?』


「どうって?」


『だから、その……お昼のやつです。両手は初めてだったので……どうだった、かなって』


 期待するような声で言われても、佐藤みたいな整った体型の女の子を抱きしめた感想なんて、男の俺がどう言葉を選んでも気持ち悪くなってしまう。

 だからなるべく、当たり障りのなさそうな……


「まあ…………小さかった」


『む……それって、褒めてくれてますか?』


「どうだろうな」


『い、いじわるしないでくださいよ……っ』


「してないって」


『むぅ……』


 納得していない様子が通話越しにも伝わってくるが、そんな佐藤も可愛いなと思ってしまう。

 頬を膨らませてたりするのかな。

 見てみたかった。


『じゃあ、次する時は、ちゃんと教えてくださいね』


「教えるもなにも、もう伝わってそうな気がするんだけど」


 両手でしばらく抱きしめていた時点で、感想は佐藤の想像通りだろう。


『だ、だとしても、言葉も欲しいものなんです』


 そう言い切って、佐藤は感想を求める姿勢を貫いた。


 お昼のことがあってから、佐藤は少し変わった。

 今までは自分から何かを求めてくることはそう多くなかったが、今では遠慮なく欲しいものを言葉にしてくる。


『……顔の見えない今が、チャンスですよ』


「……」


 例えばそう、こんなふうに。


 いったいどうすればたった一日でこんなに弱気とさよならすることができるのか……お昼のハグで、佐藤はなにを感じ取ってしまったのだろう。

 いや、それよりも、クラスメイトたちから受け入れられたってことの方が大きいのかもしれない。ずっと心配してたのは事実だろうし。


 どちらにせよ、何か大きな不安が解消されたような、そんな印象だった。


「……わかった、言うよ」


 今日の佐藤からは逃げられそうにない。

 しかし、どうせ言うなら背水の陣と行こう。


「佐藤の体、思ってたよりずっと小柄で柔らかかった。それなのにちゃんと熱を感じて、温かくて、気持ち良かった。可愛かった。抱きしめてる最中佐藤の顔は見えなかったけど、そうとは思えないくらい佐藤を近くに感じられて、正直に言って……幸せだった。だから、小さかったっていうのは俺としてはすごい褒めて──」


『わぁあああっ! あ、ああえっと、も、もう大丈夫です……っ!』


 スマホから佐藤の上擦った声が響く。


「そう?」


『は、はい……っ』


「でも、今がチャンスらしいから」


『ぅ……そ、それは、そうですけど……』


 せっかく付き始めた佐藤の自信を無くさせるつもりは当然ないが、それでもちょっとは反撃したい。

 嫌がられない程度に困らせたい。

 なんでこんなに意地悪したくなるのかはよくわからないけど。


「まさに理想の体型って感じだったな。細いのに柔らかくて、温かいのに優しくて。普段感じてる佐藤の甘い香りも強く感じれた。知ってると思うけど、俺あの香り好きなんだよ」


『も、もういいですって、ほんとに……恥ずかしいから……っ』


 どんどん声が高くなり、通話の音が遠くなる。


『ど、どうしたんですか日向くん……今日はいつもより、なんだか……すごいですっ』


「自覚はしてる。だからこの通話が終わったら、全部忘れてくれると助かる」


 なんとびっくり、もう既に恥ずかしくなってきたから。

 できれば佐藤にはこの後ぐっすり眠ってもらって、今のことは変な夢とでも思ってもらえると助かるのだが……


『……それはいやです』


「……いやか」


『だ、だって日向くんの言葉……恥ずかしいだけで、少しも嫌じゃない、ですし。日向くんも気持ちよかったなら、今度もまた遠慮なく……しても、いいですよね?』


「……どうしたんだよ。佐藤こそ、今日おかしいぞ」


『な、なら、お互い様ですね』


 一人きりの部屋に気恥ずかしい沈黙が落ちる。


 それが苦しいような心地いいような感じがして、俺はスマホを耳に当てたままベッドで横になった。

 がさごそと布団が音を立て、体が沈んでいく。

 天井のライトが眩しく、空いている腕で目を隠す。


「……会いたいな」


『……私もです』


 呟き、再び黙る。


 がさごそと、スマホの向こうから聞こえてきたそんな音が静かな部屋では良く聞こえた。



 今日一日、佐藤とはずっと同じ空間にいた。

 けれど、喋ったり触れ合ったりできたのは、登下校の時とお昼のあの時間だけだった。


 いつもはもっと……


 いや、よく考えたら、先週も似たようなものだったはずだ。

 登下校を共にして、一緒にお昼を食べるだけ。

 授業中は当然喋れないし、席だって離れているからそばにいたわけじゃない。

 今日とほとんど変わらない。


 そのはずなのに、今日は全然足りてない。

 もっとずっと一緒にいたい。

 佐藤の手に触れていたい。


 そんな煩悩にも似た満ち足りなさが、どうしようもなく胸中を満たしてくる。


『日向くん……』


「……」


『会いたいです、日向くん……』


 消え入りそうな声で囁かれる。


 なんだこの可愛い生き物は。

 そう思えば思うほど、会えない苦しさに胸が締め付けられる。

 高校生が外を出歩いていい時間はとっくに過ぎているため、佐藤と会えるのは明日の朝になる。


 なら、今できることはなんだろう。

 会いたいと言ってくれた佐藤に返せる誠意。

 この虚しさを少しでも埋めるために、俺ができること……


「……迎えに行く」


『……え?』


「明日から毎朝、佐藤を家まで迎えに行く」


 そうすれば徒歩で駅まで向かう間も佐藤と一緒にいられるし、今朝のように佐藤が駅のホームで人の視線に悩まされることも俺がある程度解消してあげられる。


『日向くんが……お迎えに……?』


「……迷惑かな?」


『……』


「佐藤?」


『……迷惑なんて、ありません』


 なら、決まりだ。


「じゃあ、明日の朝、佐藤の家で」


『…………はいっ』


 恥ずかしそうに溜めた後、佐藤は力のこもった声で応えてくれた。

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