第7話 まだまだ進む佐藤①

 午後の授業も終わり、放課後の電車内。

 週末が近づいてくると残業時間が増えるのか、昨日までいたような社会人の姿もあまり目に入らなくなり、今日はそれなりに席が空いていた。


「あそこの二人席にしようか」


「は、はいっ。……二人席っ……」


 ぴくんと隣で跳ねた佐藤を連れて、ちょうど並んで座れる小さな席に腰を落ち着ける。


 すぐに電車が発車し、車両が揺れると、佐藤の肩が俺に触れる。


「あ、あの、日向くんっ」


「ん?」


「わ、私の名前、呼んでみてくれませんか?」


 しかし、触れ合う肩にも気付かないほど緊張しているのか、佐藤は俺にお昼のことを思い出させる。


 相手の呼称……二人称は大切だ。

 呼び方一つで、二人の距離感は一気に変わってくる。

 だから、二人称でからかうのはあんまり良くないのかもしれないけれど……


「彩音?」


「ぁぅ……そ、そっちじゃなくてっ」


 お昼の反応が思いの外可愛らしかったので『名前』で佐藤を呼んでみれば、彼女は顔を赤くして、一歩遠い呼称を希望した。


「ごめんごめん、佐藤」


「っ……は、はいっ、日向くんっ」


「……」


「……?」


「えっと……ただ頷かれると俺が困る」


「わ、ご、ごめんなさいっ」


 一歩遠い呼称……のはずなのに、呼んだ瞬間、佐藤はもの欲しそうに目を細め、それから慌てて両手を左右に振った。


 こういう反応も、まあ、見てて飽きないな。


「あ、あの、日向くんっ」


「ん?」


「そ、その、私……実は、日向くんにもう一つ、お願いしたいことがありまして……。い、いいですか?」


「いいよ。何すればいい?」


 前回が『さん付けの解消』だったことを思えば佐藤のお願いのハードルはかなり低い。

 二人の距離も縮まるので、断る理由はないだろう。


 佐藤は恥ずかしそうにもじもじと指を動かした後、控えめに俺を見上げて呟いた。


「ひ、日向くんには、私の……その……れ、練習相手に……なってほしいなって、思ってまして……」


「練習相手? 何の?」


「え、えっと…………会話の、です」


 会話の練習相手……?

 佐藤の言いたいことはなんとなく分かったが、俺は首を傾げて問い返す。


「もちろんいいけど、会話の練習って具体的になにするの?」


「え、えっとですね……日向くんは、ただ私の隣にいてくれれば、それで大丈夫……ですっ」


 要するに、単純に『会話する相手』が欲しいということか。

 一人じゃできないもんな、会話って。


「それならもちろん問題ないよ。せっかくだし、毎日の電車とバスでしようか」


「は、はいっ!」


 まあ、とは言ってもすることは今までとほとんど変わらない。


 佐藤と喋る。


 そこに突飛な話題が加わることもあるけれど、練習だから許してね、ということだ。


 そのくらいわざわざ断らなくてもいいのに、本当に佐藤は根が素直なんだろうな。


「じゃ、じゃあ、早速……いいですか?」


「いつでもどうぞ」


「ま、まずはその、私……ひ、日向くんのことを、つっかえずに呼べるようになりたい……ので、たくさん名前、呼びますね」


「あ、ああ、分かった」


 そういうの、宣言されるとなんとも歯痒い気持ちになるんだが、佐藤の『脱・地味子』に俺が茶々を入れるわけにはいかない。


「……で、では……えっ、と……」


「怒ったりしないし、何度でも付き合うから。気楽にね」


「は、はいっ」


 どんどん顔を赤くしながら、佐藤はゆっくりと口を開き……


「ひ、……じゃなくて……日向、くんっ」


「……い、いい感じじゃん」


「な、なんでちょっとニヤニヤするんですかっ」


「ごめんごめん、なんか目が全然合わないなって思って」


「ぁ、た、確かにそうですねっ」


 どうにか俺の名前を呼ぶことには成功した佐藤だったが、言ってる最中全く目を合わせてくれなかった。

 それがなんだか可笑しくて、俺は早速茶々を入れてしまった。


「最初は目を合わせるところから始めてみようか」


「そ、そうですね。あの……よ、よろしくお願いしますっ」


 そう言って佐藤は目の潤いを蓄えるように瞼をぎゅっと閉じた。


「……っ、で、では」


 うっすらと、メガネの奥で佐藤の瞳が見えてくる。

 ちょっとずつ、少しずつ開いていき……


「ぅぁ……」


「あらら」


 ちゃんと見えたと思った瞬間、彼女のそれはすっと左に逸らされた。


「……っっ」


 しばらく見つめてみても変化なし。

 頬を染め、手もちょっと震わせて。


 やっぱり緊張がひどいんだろうな。


 うーん……安心してもらうには、そうだな……


「……っ!? ひ、日向くんっ、て、て、手がっ」


「こうすればちょっとは落ち着けるかなと思って」


「は、はわわ……わわ…………な、なんですかこれっ……」


「……あれ。佐藤? ……佐藤さん?」


「ぁぁ……うぁっ……」


 ダメだこれは。

 落ち着かせるどころか、佐藤の緊張が高まりすぎてフリーズさせてしまった。


 思えば、会話することも目を合わせることもまだ上手にできない佐藤にスキンシップは早すぎたのかもしれない。


「佐藤ー? もう手離したよー?」


「……ぅぅ、だ、ダメです……こんな……」


「彩音?」


「ひ、ひゃいっ!」


 ビクンと肩を跳ねさせて、佐藤が珍しく大きな声で反応する。


 良かった。

 戻ってきたらしい、魂が。

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