第3話 前髪を上げた地味子
佐藤彩音という女の子について、俺が知ってることは非常に少ない。
一つは、喋るのが苦手なこと。
「あ、あの」だったり、「ひ、日向くん」だったり、喋り始めから躓くのが彼女特有の会話術だ。
一つは、昨日痴漢に遭ったこと。
通学時間に単語帳で勉強という学生の本分を全うしていただけの佐藤は、不幸にも昨日、変態不審者痴漢星人とエンカウントしてしまった。不幸中の幸いは、俺が近くにいたことくらい。
そして最後の一つは、佐藤がとにかく地味な見た目をしているということ。
もちろん見た目の好みは人それぞれなので、あくまでも『俺の学校では』、『比較的に』と言わせていただいた上で、改めて
目にかかるほど伸びた前髪、怪しく光る黒縁メガネ、滅多に喋らず猫背がデフォルト、そのせいでスタイルの良し悪しもわかりづらい。
この容姿と会話の下手さが災いして、学校では絶賛ぼっちな孤独少女となっている。
……と、まあ、俺が知ってる佐藤彩音という女の子の特徴はこんなところだ。
要するに、たったの三つなのだ。
佐藤彩音という女の子について、俺はたった三つのことしか知らない。
「お、おはよう……日向くんっ」
「あ、おはよう佐藤さ……ん?」
しかし、逆に言えば、それはつまり、三つのうちの一つでも変わってしまったら速攻で気づけるというわけで……
「と、隣、いいかな?」
「あぁ……もちろん」
「あ、ありがとっ」
女の子が髪型を変えるのは別に珍しいことじゃない。
俺にも中学生の妹がいるが、最近になってツインテールに落ち着くまでは毎日のように髪型は変わるものだった。そのことを思えば、思春期の女子高生が髪型を変えてきたところで何も驚くことではないのだが……
それでも、佐藤だけは例外だった。
「佐藤さん、その髪……」
「あ、えっと……こ、これはその、き、気分転換と言いますか、今日の気分といいますかっ」
目元だけでなく眉、そして白いおでこまで露わになった今の佐藤の姿は、普段よりもずっと可愛らしかった。
今までが地味だった分、余計にそう強く感じる。
「へぇ……なんかちょっと勿体無いな」
定期的に前髪を手のひらで触ったり、不定期に合う瞳が速攻で逸らされたりするのもまた、初めてオシャレに挑戦した時の妹を思い出すようでなんだかとっても微笑ましい。
しかし、気分転換だということはすぐにまた元の髪に戻してしまうのだろう。
「も、もったいない、ですか……?」
「ああ、いや、ごめん。普通に似合ってるからたまにしかしないの勿体無いなって思っただけで、別に変な意味はなかったんだけど」
「い、いえっ! じ、自分でも、いつもの髪型は地味だし暗いかなって、思ってたので……そ、その……似合ってるなら、良かったですっ。ありがとう、ございます……っ」
そう言ってぎこちなく微笑んだ佐藤は、再び俺から目を逸らして前髪をさわさわと。
「ぁ……明日もこれにしよう、かな」
「いっそのこと切ってみたら?」
「そ、それは、もう少しあとで……リサーチが進んでから…………ぁ」
「リサーチか。やっぱり女子高生ってトレンドとか気にするんだね」
「ぁ……や、えっと……はいっ。き、気にしますっ」
俺は女子高生の髪のトレンドなんて一度も調べたことすらないが、今日見た感じ、佐藤ならどんな髪型でも似合ってしまいそうな気がする。
前髪を上げたことで見えてきた顔全体のバランスは、正直かなり良さそうだった。
「あ、あのっ、日向くんっ」
「ん、どうした?」
緊張気味に、佐藤が俺の目を覗いてきた。
「ぁ……その……」
髪型を変えた恥ずかしさにまだ慣れていないのか、俺と目が合った佐藤は顔を真っ赤にしてフリーズし……
数秒後、魂が体に戻ったらしい佐藤は、意を決したようにスカートのポケットからスマホを取り出した。
「も、もし、日向くんさえ……良ければ……その、れ、連絡先っ、交換しませんかっ!」
「お、いいねいいね。ぜひ」
「わぁっ! や、やった……っ!」
新しい友達との連絡先の交換。
そういえばそんな儀式あったな。すっかり失念してた。
同じ方面の電車に乗る数少ない……もしかしたら唯一のクラスメイトなんだから、連絡先を交換しておくのは十二分に意義がある。
「じゃ、じゃあこれっ、私の……っ!」
「ほい。…………よし、できた」
「あ、ありがとうございますっ! わぁ……日向くんの連絡先っ……ふふっ」
「こういうの初めてだったりする?」
「は、はいっ! 日向くんが私の、最初の友達ですっ」
「そっか。実は俺もそうなんだ。高校で連絡先交換したのは佐藤さんが初めて」
「ほ、ほんとですか……!?」
「うん、本当」
そう言うと、彼女は目を大きく見開いた。
「わ、わわわっ、私がそんな、そんなっ! うぅ……ダメですっ……わ、私もう、お腹いっぱいで……」
どうやら朝食を食べ過ぎていたらしい佐藤は、自分のお腹を抱くようにして上半身を前に傾けた。ご飯をたくさん食べる人は好ましいが、電車の中での惨事はどうにかやめて欲しかった。
「……大丈夫?」
「だ、だいじょぶですっ」
……でも、まあ。
不意なリアクションの多い佐藤と喋るのは退屈しなくていい。
このまま佐藤が容姿を磨き、いずれ会話に慣れてきて、猫背も治ったりしたら。
その時にはきっと、佐藤は学内カーストを鰻登りで駆け上がる。
「……背中さすろうか?」
「だ、だいじょぶですっ、ホントにっ」
もしも佐藤が高嶺の花なんて呼ばれ出したりしたとして、その時俺と佐藤はどんな関係になっているんだろう。
通学友達のまま?
それとも親友になってたり?
あるいは……いや、まさかな。
「うぅ……っ」
未だに顔を上げない佐藤が電車に揺られて倒れないよう注意しながら、俺はそっと苦笑した。
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