そこから出てはいけない

理科 実

そこから出てはいけない

「布団に入ったら何も考えず寝付くこと。間違っても手足なんて出したらいけないよ。出したが最後、《ヤツら》に持ってかれるからね」


 最初に祖母から話を聞いた時、僕は真面目に聞いているフリをしつつ、内心そんな話を真面目に語る祖母のことをバカにしていた。同時にちょっぴり怒りたくなったものだ。まったく……この祖母はいつまで僕を子供扱いするのだろう、と。

 大学2年の夏休み、僕は祖母に会うために帰省していた。最後に祖母に出会ったのは祖父の葬式以来だ。3年ぶりに会う祖母は心なしか一回り小さく見える。やはり祖父を喪ったことが応えているのだろうか……など考えていた昼までの時間がバカみたいだった。

 僕は小鉢に入ったきゅうりの浅漬けをポリポリと咀嚼しつつ、祖母の言っていたことを考える。


 ヤツらとは何だろうか?


 幼少の頃からたびたび聞かされていたその存在。

 ついぞ正体を聞いたことはなかった。きっと僕ら子供を寝付かせるために大人たちが作った怪談の類だと思っていたからだ。けれど僕はもうとっくに成人も迎え、そろそろいい大人になりつつある。成人男性を怖がらせようというのは少し無理があるだろう。

 ボケたのかな?とも思った。祖母は今年で90を迎える。正直いつ天に召されてもおかしくは無い年齢であり、認知症が始まっていてもというかとっくに認知症でもおかしくはない。しかし、こうして僕がぼんやりと夕飯をいただいている間にも、祖母は何やら台所で忙しなく動き回っている。食材を刻む包丁はリズミカルに振るわれ、手元もしっかりしていると思う。ろくに自炊もしない僕と比べたら雲泥の差だ。その動きを見るに、脳の認知機能が衰えている様子なんてちっとも見えない。

 さて、ここまでうだうだと考えてきた結果、一つの嫌な可能性が頭をよぎる。


 祖母が言う通り、もしかして本当にこの家にはがいるのか?


「……ばあちゃん、ヤツらって何なのさ」


「ばあちゃんも知れへん。でもな、ばあちゃんのばあちゃんも、ずっとそのこと言うとった。だからゆうちゃんも守れへんとあかんよ」


「そういうもんかなあ」


「うんにゃ。ご飯食べたら風呂が沸いとるで。ちゃっと入って早う寝んさい」


「はいよ。ありがと、ばあちゃん」



 その後火傷するんじゃないかってぐらい熱々のお湯に浸かる。さっさと上がって縁側で軽く涼むと、虫たちの奏でる音色が夜風と共に運ばれてきた。ふと、空を見上げてみる。


 今夜は新月みたいだ。


 少し名残惜しいけどいい感じに身体も冷えてきたので、襖を閉め、布団を敷き、床につく準備を始める。


「……何だこれ?」


 布団を敷こうとした時だった。黒いシミが床にあるのを見つけた。

 シミは一つだけではなく、いくつも床に散っている。


「まさかね……さっさと寝よ」


 気にせず作業を続けた。布団に入り、スマホを確認する。通話アプリで友人にチャットを飛ばし、SNSを巡回、ついでに今日撮った写真をアップロードしたりした。

気づけば1時間近くいじってしまっていたようなので、今日はこの辺でやめておくことにする。

 のそのそと布団から這い出て、天井から垂れる紐を引く。


 部屋から光が消えた。


 布団に入り、目を閉じる。寝る前にスマホをいじってしまったせいか、脳が興奮してしまっている。閉じられた襖の外からは今も虫の音色が聞こえてくる。睡眠導入用のBGMとしてこれ以上のものはないだろう。聞いた話では目を閉じているだけでも脳の疲労は幾分か取れるらしい。焦らなくても次第に眠れるはずさと思いつつ、横になり、瞼を閉じて意識を闇に落とそうとする。


『布団に入ったら何も考えず寝付くこと。間違っても手足なんて出したらいけないよ。出したが最後、に持ってかれるからね』


 祖母の言葉が脳裏に再生される。何もこんなタイミングで……とは思ったが、僕だってもう子供じゃない。……などと思いつつも、四肢をしっかり布団の中に納める僕なのであった。



 夢を見た。

 そこは森の中だった。

 いや、樹海と言ってもいいかもしれない。それほど辺りは緑に覆われていて、気を抜けば自分が今どこにいるのかもわからなくなってしまいそうだった。


『優、久しぶりだな』


 目の前に誰かがいる。

 黒いもやのようなもので隠され、姿はよく見えない。

 けれど幼少の頃から親しみ、懐かしさを感じさせるその声を忘れるはずもない。


「じいちゃん?」


『優、時間がないからよく聞きなさい。ここから先、布団の中からは決して出てはいけない。そして何があっても、決して答えてはいけない』


「何を……言って」


『おじいちゃんとの約束だ。……守れるか?』


「うん……わかった」


『優はいい子だな。おじいちゃんはいつでもおまえを見守っている』


 同時に僕の意識は、再び闇の中で覚醒した。



 瞼を閉じたまま自身の意識が覚醒状態にあることを僕は認識した。

 先ほどまで聞こえていた虫の音色も気付けば止み、辺りは静寂に包まれている。

 現在の僕は頭から爪先まで掛け布団に覆われていた。最初は枕に頭を預け、正しい姿勢で寝ているはずなのだが、気づけば布団の中に潜っている。幼少の頃からいつもそうだった。母には苦しくないのか?と聞かれたこともあったが、どうやら僕はこの寝相に安心感を思えるようだった。

 当然視界は闇に覆われている。おそらく、まだ夜中なのだろう。現在時刻を確認しようと僕は部屋の隅で充電しているスマホを取りに行こうと思った。


「……?」


 何だろう。

 僕の中で得体の知れない不安が急速に満たされていく。

 僕は何かを忘れている。大切で、絶対に守らなければならない約束。

 それは


 違和感があった。


 無人のはずの僕の部屋。ばあちゃんの寝室とも距離があり、他には誰もいないはずの和室。僕が寝ている布団が中央に据えられているだけのこの部屋に。

 具体的には僕の頭の近く、元々枕が置いてあったはずの位置。

 

 正直信じたくはないし、認めたくもない。何かの気のせいだと思いたい。

 僕は目を瞑っている。

 実際に見たわけではないから、確定はできない。けれど、たぶん、きっと

 ヤツらは今、ここにいる。

 心臓が早鐘を打つ。

 別に危害を加えられたわけではない。しかし、ただそこにいる……得体の知れない何かに僕は囲まれているという事実が僕を焦らせる。


 ず……っ……ず……ず……っ……


 音がした。

 畳の上を何かが這っている。

 これがばあちゃんであってくれたらどんなに良かっただろう。しかし、音の方向とその数が現実の非情さを僕に突きつける。

 目を閉じろ、耳を塞げ、身体を布団から出してはいけない。

 何も考えず、ただただ意識を闇に落とせ。

 僕は自分へと必死に言い聞かせた。

 しかし、思いとは裏腹に体へ緊張感が満ちていく。

 一度寝てしまったせいか目は冴えている。聴覚は研ぎ澄まされ、部屋に満ちる空気の重みを肌は鋭敏に感じ取っていた。


『……よ……ね……い……よ……』

『あ……ね……ん……い……よ……』

『あの…………………………いよ……』

『…………………………あ…………い…………』


 声がした。明らかに、それもいくつもの声が聞こえてしまった。

 これでもう否定はできない。

 声はざらついていて、意味を成していない。しかし聞こえてくるのは間違いなく声で……それも日本語のそれだ。

 今すぐここから逃げ出したい。さっさと新幹線に飛び乗って東京へ帰り、今日のことなんて忘れ去ってしまいたい。けれど残念ながら僕は布団の中に閉じ込められ、一切の身動きを封じられている。できることは辛うじて息をすることくらいだ。


 …………………………………………


 ?

 ……急に静かになった?

 先ほどまで周囲から降り注いでいたうめき声が気付くと止んでいた。

 もしかして……気のせいだったとか?

 あれだけばあちゃんに脅されたので、幻聴が聞こえるようになってしまったのか?

 そんな考えが浮かんできた。……いや、

 今なら……行けるんじゃないだろうか?

 布団を抜け出し、部屋から脱出する。祖母の部屋に行って助けを求める。

 大の大人が情けないとは思うけど、恐怖には変えられない。

 あと30秒……30秒数えて、何も聞こえなければそうしよう。

 心の中で1秒目を数え出そうとしたその時である。


『なんで?』


 声が生まれた。今度ははっきりと聞き取れた。

 何で?と。

 僕の耳が、そして脳がついにその存在を認識してしまった。


『いこうよ』


 声は変わらず聞こえてくる。

 いったいどこに行くのか?ここから出た瞬間、僕はどこへ連れて行かれてしまうのか?





 あれからどれだけの時間が経ったのだろう。

 祈るように僕は目を瞑り続け、たとえ無駄だと分かっていても、ヤツらに存在を悟られないように布団の中で僕は息を潜めた。

 相変わらず眠ることはできなかったけれど、悪いことばかりではなかった。


 ヤツらの声が聞こえなくなったのだ。


 正確な時間はわからないが、気付くと周囲は静寂に包まれていた。

 何も聞こえない無音の空間、そこに僕の息の音だけが漂っている。

 そして先ほどまで感じていた部屋を包む違和感のようなものを感じられない。

 まだ油断はできない……けれど、確実に状況は変わった。

 思考を重ね、胸中に込み上げる不安を直視しないようにする。

 絶えず脳内で再生される嫌な想像を必死に追い出そうとする。

 そんな時だった。


 す……す……す……っ


 音がした。

 それは先ほどまで床を何かが這いずっていた音とは違う。

 何かが床を擦る音……たぶん、襖が開く音だ。寝る前に閉じたはずのそれが今開かれようとしているのだ。


『優ちゃん?』


 名前を呼ばれた瞬間、僕は心臓を鷲掴みにされたのかと思った。

 しかし、何だろう……この声は聞き覚えがある。

 いや、聞き覚えがあるどころじゃない。これは


『優ちゃん。いつまで寝とるの?朝ごはんもできとるでちゃっと起きんさい』


 婆ちゃんだ!!

 間違いない、これは祖母の声だ。

 布団を被っていたせいで気づかなかったが、ついに朝がきた。

 僕は耐え抜いたのだ。

 恐怖に耐え、誘惑に耐え、息苦しさに耐え抜いた。

 時間にしてたった一夜だったけど無限にも思える時間を耐えきった。

 婆ちゃんがいるならもう大丈夫だ。そう思い、僕は這い出るように布団から飛び出し


「婆ちゃん!!」


 祖母を呼ぼうとする。しかし



「…………え?」



 襖は開けられていなかったし、目の前に祖母はいなかった。

 視界には一面の闇が広がっていただけだった。


「婆ちゃん……?……婆ちゃん!?」


 返事は無い。

 あれほど喧しくしていた虫たちも鳴りを潜め、今は何も聞こえない。

 幻聴だったのか?

 あの声は、僕の恐怖心が生み出した幻だったのだろうか?

 確かにそれなら腑に落ちる。きっと祖母が言った一言を気にしすぎた結果、僕は必要以上に気負ってしまい、周囲の音や景色がそう見えてしまっただけなのかもしれない……そうだ、きっとそうなんだ。

 あれは夢だったのだろう……僕はそう思うことにした。

 今は何時だろう?スマホを見ようと僕は後を振り向いた。



『やっとおきた』



 闇の中に祖母がいた。

 悲鳴はあげなかった。あげたかったが声が出なかったのだ。

 異変は声が出ないことだけではない。

 身体が動かない。

 立ったまま、身体が金縛りにあってしまったように、硬直している。

 思考が定まらない。

 目の前にいるのは祖母のはずだ。生まれてこの方お世話になった人の姿を僕が見まごうはずはない。それでも違和感はまとわりつき、思考が乱される。認めたくはないのに


 こいつは誰だ?


 脳は危険信号を発し続ける。


 ず……ずず……っ……ず


 祖母の姿をした何かが僕の方に近づいてきた。

 闇に覆われていた輪郭が、近くになるにつれ明確になっていく。

 その右手には包丁が握られていた。


「……っ!?…………!!……っ!!……」


 やめてくれ!!こっちに来ないでくれ!!

 目の前のそいつに懇願しようとしても声が出ない。

 そして


『いこうよ……優ちゃん……一緒に……いこうよ』


 僕の身体に包丁の切先が触れる。

 全ての神経が、嫌でもそこに集中してしまう。

 最初は点だった。


 ずぶり……ずぶり……


 点は線になり、面になる。

 沼へと沈み込むように包丁は僕の体へと吸い込まれていく。



『                           』



 意識は闇に溶け、この日僕はようやく眠りにつくことができた。

 完全に落ちる前、懐かしい声が聞こえた気がした。











「おはよう、婆ちゃん」


「遅かったね。ちゃっと食べてまいんさい」


「昨夜はよく寝れなくてさ」


「また遅くまで携帯見とったんやないの?ちゃっと寝んでそうなるんやお」


「今度から気をつけるよ。……あのさ、婆ちゃん」


「ん?」


「昨夜僕の部屋に来た?」


「……いや、行っとらん」


「そっかぁ……昨日ちょっと夢見てさ、その時婆ちゃんがいたような気がするんだよね」


「どんな夢やった?」


「怖いんだけど……なんか懐かしかった」


「そうか……食べ終わったら爺さんの墓参りでも行こまいか」


「あ、それいいね。ちょっと待ってね、すぐ食べちゃうから」


「急がんでええよ。おかわりもあるでゆっくり食べんさい」


 包丁の音が台所から聞こえる。

 トントン……ザッ……ザッ……リズミカルな音から察するに、今日も婆ちゃんの手元は絶好調だ。

 焼き鮭をおかずに、僕はなみなみと茶碗に盛られた白米をかき込む。

 食べながら僕は昨夜の夢を思い出す。

 詳細に覚えてないが、とても怖い夢だったと思う。

 夢の中で僕は何かに襲われた。それが婆ちゃんの言っていた「ヤツら」だったのだろう……とにかく怖かった。でも途中で何か懐かしい声が聞こえて、気づけば悪夢は過ぎ去っていたのだ。

 あの声の主を今はもう思い出せないけれど、きっと僕は助けてもらったのだ。


「婆ちゃんおかわりー」


「はいはい」


 今年のお盆も終わろうとしている。

 じいちゃんに会いに、墓参りへ行こう。


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