7日目

 強い日差しの中、潮風に吹きつけられながら、海岸線を二人で歩く。風が強いからか、時折大きな波の音がする。

 最終日。午前中しかないので、雨が降ったせいで描けていなかった小川を見に行くと思っていたのだが、海沿いを歩きたいとの希望だった。

 行先を決めてから、互いに何も言わずに歩いている。話すことがないわけじゃない。話せたらどんなに楽だろうか。

 代わりにとばかりに、まだまだ元気なセミの鳴き声が響く。夏は終わらないとばかりに。

 でも、この町での人の営みは終わる。


「――ねぇ」

 いよいよ、最後であろう会話の口火が切られる。

「どうした?」

「歩き疲れたちゃって。そこに座らない?」

 指は椅子に指す。切り株を模した石の椅子――再会した初日に座ったのと同じものだった。

 あの時と同じように向かい合うように座る。日差しで熱されていた椅子は焼かれるように熱い。でも、腰を上げるようなことはしない。今だけは、この場から離れたくなかったから。

「もう一週間経ったねぇ」

「案外、早かったなぁ」

「それなのに、まったく涼しくならないね」

「そうだな。いつまで暑いんだろうな」

「ほんとにねぇ」

 他愛のない会話しかできない。こんなことじゃなくて、もっと話したいことはあるはずなのに。聞きたいこともあるはずなのに。

 けれども、深く聞ける資格は自分にはない。自分から一線を引いてきてしまっていたから。

「最後にお願いがあるんだけど、いい?」

「なんだ?」

「きぃくんが私を描いてくれないかな?」

 悪気のない顔で、画材の入ったカバンを差し出してくる。

「……やめておくよ。だって俺」「絵が下手だから?」

「下手なの覚えてたんだな」

「忘れるわけないよ。昔、きぃくんが私のこと描いてくれたのに、泣いちゃったんだもん」

「けっこう傷ついたんだぜ、あれ。そりゃ、今考えればなんか関節増えてるし、顔は溶けてたし。泣かれるとは思ってなかったけどさ」

「あの時は泣いちゃってごめんね。一生懸命描いてくれたのに」

 それ以来、描くことに苦手意識を持っていた。美術の授業で描いたものが、教室の後ろ貼られていた時期は苦悶したものだ。

「今度は泣かないから、お願い」

 しぶしぶと渡された画材を受け取る。

 泣かれたあの時から大して絵心がよくなっていないことは、一昨日描いた時に自覚していた。でも、最後ならば聞かないわけにはいかなかった。

 空白のページを探すために、スケッチブックをパラパラとめくっていく。目に入るのは見覚えのある風景。そして、ここ数日行った風景。残っていた空白は、丁度最後のページだった。

 鉛筆を取り出して、構える。正面を見るとまんじりと動かずにこちらを見てくる。全てを照らそうとする日差しの中、できないなりに鉛筆を走らせる。

 誰かが見れば、きっと他のページに比べれば笑われてしまうような出来になるだろう。それでも、了承したのだ。

 現実の風景を、幼馴染の顔を、何本もの線に落とし込んでいく。現実には存在しない境界の線を引いていく。

 ああ、写真の方が精巧に残せるのに。立体感がのっぺりとした遠近感に置き換えられていく。

 しばらくしたら、後世に残って欲しくない絵の出来上がりだ。きっと、後世に残してくれと誰かに頼んでも迷惑なだけだろう。

 でも、目の前にはこの絵をみたくて仕方ない人間が目の前にいる。

 出来る限りの力を込めた渾身の一作だ。鉛筆を置いてからも何度も見比べる。

 喜ばれるだろうか。それとも怒られるだろうか。またはあの頃のように泣かれてしまうのだろうか。いっそ千切って投げ捨ててしまおうか。裏面の絵まで無くなってしまうからそれだけはしないことにした。

 パタンとノートを閉じて画材のカバンに戻してから渡す。

「帰ってから見てくれ」

「お、粋だねぇ。お土産ってとこかな?」

「目の前で見られたくないだけだよ」

 苦肉の策だった。

 日が高くなっている。描くことに没頭していたからどれほどの時間が経過したのか分からない。それでも、着実に別れの時間は近づいていることは確かだった。

「最後にさ、手を繋がない?」

「最後のお願いはさっきのじゃないのか?」

「お願いってほどじゃないってことだよ。昔、よく手を繋いでたんだしさ。……嫌?」

「そういうわけじゃないぞ。絵を描かされるほどのほうが嫌だった」

「じゃあ、いいってことで」

 手を取られて、無理に組まされる。

 昨日、タオル家とtの中で体をくっつけた時と同じように熱い。いや、それ以上かもしれない。

 熱さを理由に振り解いたら、泣いてしまうだろう。だから離すわけにはいかない。

「きぃくんはさ、この一週間楽しかった?」

「まあ、飽きはしなかったな。昔みたいでさ」

「はぐらかしてる気がするなぁ?」

「ああ、はいはい。楽しかったよ、とっても楽しかった」

「今度は投げやり」

 一体どう答えれば正解なんだろうか。

 二人で海の水平線を見据える。遠く遠く、どこまでも広がっている。嫌というほど世界の広さを意識させるように。

「私がさ、初日に言ったこと覚えてる?」

「この町で生まれて、この町で死ぬ、ってやつか?」

「そう、それ。それね、半分なんだ」

「半分?」

 少しの沈黙。ようやく意を決したのか、言葉は続けられる。

「この町で生まれて、この町で死ぬと思ってた――あなたと」

 昔のことだけどね、と照れ臭そうに付け加える。

 辺り一帯が静寂に包まれる。あれほどまでにうるさかった虫の声が、風で揺られて木々の葉の擦れる音が、まったく聞こえなくなる。世界が空気を読んで彼女の言葉を聞き逃さないようにしてくれているように。そして、彼女の発した言葉を咀嚼して、噛みしめて、言葉を返す。

「……そっか。でも、それはもう叶わないことだな」

「うん、そうだね。ここはもうなくなっちゃうんだもんね」

 一層、ぐっと手に力が入られるう。呼応するように握り返す。

「また会える?」

「さぁ? どうだろうな」

「曖昧だなぁ。じゃあ、最後ってことで」

 ふいに頬に柔らかい感触。幼少期に親がやってくれたのものより、柔らく感じる。

「さよなら、きぃくん」

 耳元でささやかれると、繋いでいた手がするりと抜けて、画材の入ったカバンを持って駆け出していってしまう。

 せめて別れの挨拶を言わなければ――。でも、言葉は喉でせき止められ、去って行く後ろ姿を見届けることしかできなかった。

 向こうは歩み寄ってきていたのに、拒否して距離を置いていたのは自分のほうだ。最後まで呼べなかった。昔なら言えたのに。これで二回目の別れだというのに、何も言えない。

 追いかけることもしない。追いかけたところで、これ以上に何かできるわけでもないから。

 この地から去らなければいけないのを変えることもできないし、一緒の地に住もうといえるほどの力もない。

 まだ親の庇護下で過ごすしかない、一介の学生でしかないのだから。

 あれほど近くにあった線が、点に変わっていく。

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