第22話 誰がための救い

「クラリス、そいつは放っとけ!」


 獏王の怒鳴り声が水音を破った。


「いまは悪魔を宿主から引き剥がす」


 意識を少年から自分に向けろと言わんばかりに、強引な歌声が絡みついてきた。


 共に歌う者の心を開くのがクラリスの歌声なら、コクヨウのそれは相手の心を奪うものだ。噛みついて、のみこんで、意のままにさせる——歌の苦手だった彼女がいまのように心のまま歌えるようになったのは、彼のそういった性質にうまく調律されたためだった。


 寄り添おうとするばかりだったクラリスの音は、コクヨウにつられて強気な響きをはらんだ。重ねられた歌声は荒々しく宿主につかみかかり、その悪夢を悪魔ごと、無理やりに引き剥がそうとする。


 耳障りな甲高い悲鳴があがった。

 獏王の下でもがく小さな身体から、もうもうと闇が噴き出す。その闇すらも、どうにか肉体に戻ろうとして激しく暴れまわったが、そのうちにはっきりとした輪郭にとらわれる。

 月明かりが、虎頭と銀色の鱗を照らした。


 その一方で獏王の踏みつけていた身体は、三、四歳ほどの女児の姿に変わっていた。

 粗末な服は胸もとがはだけ、肌には大きなバツ印の火傷あとが刻まれてあった。


『そのムスメを放せ!』


 乱暴な言い方にそぐわない、小鳥のさえずるような高く甘やかな声があった。

 クラリスは思わず少年を見たが、彼は水を立てることに疲れたのか、だらりと腕を垂らしてうつむいている。


『ユーリはオレが護る!』


 今度ははっきりと、化け物の大きく裂けた口からその声が発せられるところを見た。


『はァ? 言葉のイミ理解してから言えよ。あんたがやってんのはその反対のことだ』

『チガウ!』


 小さな虎頭が、歯を剥き出しにして喚く。


『護ってた! ずっと、オレとトーマで、ユーリ護ってきてたのに……邪魔をするな!』


 それはきっと、少年——トーマがさきほどまで言葉にしたがっていた叫びだった。激しい飛沫のような怒りが叩きつけられる。


 だが獏王は聞いているのかいないのか、口を半開きにして、鋭く尖る歯の隙間からぼたぼたととめどなくよだれを垂らしていた。


『……おい、もう喰っちまっていーよなァ』


 質問でも確認でもなかった。

 すでに一歩、獏王は化け物のほうへ踏みだしていた。爪は湿った地面に深く食いこみ、もはやいつ飛びかかってもおかしくない。

 だが流線を描く巨体はわずかにバランスを欠いていた。六つの目は蜂蜜のようにとろりとして、まるで酩酊しているかのようだ。


 多くの悪夢を喰らって正気を失っていたときとも、どこかようすが異なった。


「ま、待ってくださいコクヨウ……!」


 クラリスはスカートのまとわりつく足で必死に水を蹴って行こうとするが、それより先に駆けつけたトーマが、獏王の前にするりと割りこむなり両腕を広げて化け物をかばう。


 獏王の、豚に似た耳がひくりと震えた。


『わかんねーヤツだな。俺がそいつを喰って、この子供は目ぇ覚まして、あんたも俺もクラリスもハッピー、ダイダンエンって終わりだろ。なんだよそれとも、その悪魔とキズナでも芽生えちまったのか? そういうのヒテーはしねぇけどよォ、それで大事なモン救えないんじゃホンマツテントーじゃねぇの』


 コクヨウにしては珍しい饒舌だった。そのうえ、やはり酔いを感じさせる呂律である。

 ようやくクラリスの腕が獏王をとらえる。


「コクヨウ、悪魔の話を聞きませんか」

『なァあんたも簡単にほだされてんなよ。いくらそれらしく言葉しゃべったところでしょせん悪魔はケモノだ。あんただって、昨晩こいつが礼拝堂でどんなマネしたか見ただろ』


 その口調はいやに上機嫌ですらあった。


(獣だなんて……)


「私はそうは思いません。あなたのことを、ただの獣だなんて思えないように。彼らにもなにかわけがあるのかもしれません」

『じゃ、そのわけ聞いて、このまま眠らせとくのが一番デスネってなるのかあんたは』

「それは……そんなことは、聞いてみないことにはわからないでしょう」

『届くかもわかんねぇ命乞いさせんのっていっそ残酷じゃねーの』


 悪意などかけらもなさそうなその一言が、クラリスの胸に深く突き刺さった。


(命乞いなんて、そんなつもりは……)


 分かり合えないのはきっと誤解によるもので、きちんと話し合いをすることで、互いに納得できる最善の選択ができるようになると彼女は考えていた。


(……いいえ私、本当は起こすこと以外の『最善の選択』なんて少しも考えていなかった。話し合いをすることで、どうにか私の行いを理解してもらおうと、そればかりで……)


 〝救い〟が誰にとっても救いであると、疑っていなかった。

 悪夢から目覚めさせることを、クラリスは救いだと信じこんでいた。

 たとえ話し合いで納得が得られなかったとしても、いつかわかってもらえることと信じて、無理やりにでも起こすつもりでいた。


 はなから聞き入れるつもりのない弁解を求めることは、意味のない命乞いをさせることと変わらない。どうりで彼らは、話し合いに応じるどころか、激しい怒りをあらわにしたのだ。


「なんて傲慢な……」


 クラリスは獏王から離れると、後ろに数歩よろめいた。


 後悔がかたちになったように、その周りに蒼白い焔の花びらが浮かびはじめる。


 獏王のどろりと溶けていた目が、蒼の光を映してはっと見ひらかれた。

 彼女を花びらのもとから突き飛ばそうと、とっさに踏みこまれた足は、ふとためらいに止められる。牙に、巨体になすすべなく散らされた魑魅魍魎の姿が浮かんだ。クラリスはそれらよりもずっと脆く、簡単に死ぬ。


 そのわずかな間に、クラリスの身体は蒼い火柱に包まれた。


『クラリス!』


 川水などもろともせず、焔は勢いを増して、暗闇をまばゆく照らす。蒼のなかで黒衣のシスターは影となり、悲鳴もなく燃やされる。

 獏王はいよいよ化け物に喰らいかかろうとしたが、彼の攻撃ではないらしく、虎頭は白濁とした目を限界までひらかせて叫んだ。


『やめろユーリ!』


 眠ったままの彼女のもとにすぐさまトーマが駆け寄った。身体を抱き起こし、小さな手を握りしめながら、慌てて歌いはじめる。


 『幼き花の夢守りに捧ぐ子守唄』——焦りが拍子を崩して、息も絶え絶えではあったが、愛情に満ちた歌声は焔の内側まで届いていた。

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