第21話 少年と悪魔
(声が出せない……? 讃美歌は、あんなに伸びやかに歌えていたというのに……)
はたとクラリスは少年を見つめた。
「まさかあなた、契約の代償に——」
「クラリスさがれ!」
叫んだコクヨウが、抱きこむようにしてクラリスを少年のもとから引き離した。
足がもつれて、後ろへとたたらを踏む。
靴の裏でかすかに水の跳ねる音があった。
少年の背後から濡れた手が伸びる。
「ギャアアアアッ!」
鼓膜をつんざくようなけたたましい鳴き声に、クラリスは身体を硬直させた。ノコギリのような歯を剥き出しにした化け物が、少年におぶさろうとするようにしがみついて、そのままもろとも足もとの水たまりに潜った。
大きな水柱が立つ。
一瞬遅れて、クラリスは悲鳴をあげた。
「コクヨウ! あの子、あの子がっ!」
「落ち着け、あんたも自分で言ったろ。あの子供はたぶん悪魔の契約主だ。いまのは連れ去られたんじゃなくて、逃げられたんだよ」
「なぜっ、だってあそこにいた黒夢病の方々のなかに彼はいなかったと」
「いなかった。それは間違いねぇ」
「ではどうして!」
「クラリス、息しろ」
背をさすられて、クラリスはあえぐように呼吸をした。酸素がまわっても、頭の芯は鈍いままだ。ついさきほどまで手の届くところにいた少年の、葡萄色の目が忘れられない。
助けを求めているというようすはなかった。けれど目のふちには涙が膨れていた。
「助けなくては……早く、あの子を!」
「おー、任せろよ」
クラリスが声を高くしていくほどに、コクヨウのふるまいはおおらかになる。
再び抱き上げられると、間近から穏やかなまなざしに見おろされた。そんなはずはないとわかっていながら、幼いころから何度もその目を見上げてきたような気になる。凪ぐ金色が、月に似ていたからかもしれなかった。
▼
獣は寡黙に夜を駆けた。
人間よりもずっと遅い鼓動にあやされて、しだいにクラリスの鼓動も落ち着いていく。
頭上にリンデバウムの街明かりが見えだすころ、ほの白い光の花びらがはらはらと舞いはじめた。それらはテレーゼ川の水面に降りてもすぐには消えず、しばらく流れて、まるで天使の薄羽衣を泳がせているように見せた。
「このあたりのはずです」
クラリスがそう告げるやいなや、コクヨウはためらいなく川に飛びこんだ。
幸いにして水位はコクヨウの膝を浸すほどであったが、激しい水飛沫は抱えられているクラリスの顔までびっしょりと濡らした。
「おら出てこいショーシンモノ! 逃げてばっかで恥ずかしくねーのかよ」
(……久しぶりに兄らしさを見つけたとたん、これだもの)
雪解けから間もない川水の冷たさは容赦なく、修道着どころか下着まで濡れてしまったことで身体は凍りつくようだった。
だが我慢も虚勢もクラリスの得意分野である。ここまで濡れてしまえばいっそためらいもないと、コクヨウの腕から飛び降りた。
震えそうになるあごを抑えて、息を吸う。
(大丈夫……歌えます)
一節、慎重にくちずさんだ。
歌声が水面に触れる。
波紋が一つ、輪を広げていく。
底に潜むものが、ゆっくりとその身を浮き上がらせていく——
やがて現れる、虎の爪。
真っ先に動いたのはコクヨウだった。
今度こそ逃がすまいと、獣の姿に変わって飛びかかる。迎え撃つかたちで水面から跳ねた虎の爪——化け物の膝に、獏王のその暴食を表したかのような大きな口が噛みついた。
そのままずるりと、魚を釣り上げるような勢いで、化け物をほとりまで引きずり出す。
黒い茂みが二体の獣を受け止める。銀色の鱗に覆われた、児童ほどの小さな身体は、そうしてあっけなく獏王の下敷きとなった。
『で、どーするよ。俺としちゃこのまま喰っちまってもいいけど、それはだめなんだろ』
「コクヨウ、油断しないで!」
たしかに実力差は明白だった。
それでも、彼はさきほど宿主の影に、蒼い焔の花びらでその身を燃やされたのだ。
(焔の花びら……まるでシンシアの能力のよう。もしかして、宿主の子は『魔女』?)
疑問が頭をもたげたが、自身で口にした通り、いまは考え事をしている場合ではない。
——少年の姿がどこにも見えないのだ。
クラリスがそのことを告げようとしたとき、暗闇に輪郭を溶かしていた茂みから影が駆けてきて、獏王を押した。それはきっと全力の猛攻だったはずだが、ずんぐりとした獣の身体はびくともせず、六つの金の目を一斉に向けられた少年は喉から空の悲鳴をあげた。
『ア?』
小さな肩は恐怖に震えていたが、彼は逃げださず、なおも獏王を短い両腕で押した。
そこでようやく獣は、少年が悪魔を助けようとしているらしいと気づく。
『……おいおい、健気な契約主サマじゃねーか! 見ろよほら、必死こいてあんたを助けようとしてんぜ。悪魔のくせに、こんな子供に守ってもらってやがんの!』
愉快そうに獏王は声をあげて笑った。金の目は一つ残らず三日月のかたちに変わる。
聞いていたクラリスは、まるきり悪者だと眉をひそめたが、考えてみれば彼は悪魔だ。そして自分自身も、オズクレイドがなんと言ったところで、私欲のために悪魔と契約をしたということは変わらない。少なくとも、正義の側に立っているとは断言できなかった。
「大丈夫、大丈夫ですから! 私たちはなにも、傷つけようとしているわけではありません! あなたを、悪魔の取り憑いたその子を、助けようとしているだけなのです!」
少年は、獏王から宿主の子を守ろうとしているのだ——クラリスは、彼らはきっときょうだいのような関係にあるのだろうと考えた。
彼が悪魔と契約したのも、宿主の子を救うためのことだったのだろう。
たとえば黒夢病で眠りについてしまったその子を起こすため……宿主に潜む悪魔は、そんな少年の願いをかぎつけて契約を持ちかけた。宿主の子供では幼すぎて、取り引きができなかったのかもしれない。
「その子は、私が目覚めさせます」
だから安心してほしいと伝えるつもりが、激しい水音に遮られた。
川に駆けた少年が、両腕を暴れさせて水を鳴らしたのだ。幾度も飛沫を立て、爆ぜるような音を立てつづける。言葉は発されなかったが、怒りを表していることは明らかだった。
クラリスは歌おうとした。だがその歌声さえも、水の音がかき消してしまう。
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