第23話 なぜ泣く、なぜ泣く
生まれながらに眠っていた夢守り三神。
生まれながらに焔の花びらを操れた妹。
トーマ少年にはその差がわからなかった。
ゼネディア全土で神と崇められる夢守り。両親に捨てられて、引き取られた養護施設で『魔女』の烙印を受けた妹。親に隠れて妹に会いにいったトーマは、彼女のやわらかな肌に真っ赤な火傷あとが刻まれてあるのを見つけて、頭の芯が融けるほどの怒りを覚えた。
休日のミサにおもむくように、生まれて間もない妹を捨てにでかけた母親を悪魔だと思った。書類に判を押すように、赤子の肌に事務的に烙印を押した養護施設の彼らこそ、なんらかの印をつけて人間と区別しておかなくてはならない邪悪な存在だと思った。
「妹を助けなくちゃ」
だがどうしたら彼女を救えるのか、少年にはわからなかった。養護施設からさらったところで、行くあてがない。食べるものをどこから調達したらいいかもわからない。
もう少し自分が大人になれば、解決策が見つかるだろうか。それは何年先になるだろう。
いつかいつかと考えているうちに、あるときからぱったりと妹に会えなくなった。それまでは養護施設をたずねれば必ず会えたのに、大人たちは「いまは病気にかかっているから」と首を横にふるようになった。
——その大人たちが、妹を埋める相談をしているところを耳にした。いまこそ救いだすときだと、トーマはその夜に実行に移した。
真夜中、こっそりと忍びこんだ養護施設。たった一人、鍵のかかる部屋に隔離されてあった妹は固く目を閉じたまま目覚めない。必死でゆさぶる彼に、悪魔がささやきかけた。
『そいつは悪夢に囚われたのサ。助けてほしくば、オレと契約しろ。このムスメの代わりに、お前の悪夢のなかに棲まわせろ。こいつじゃ幼なすぎて、ろくに話が通じない』
トーマは絶望した。
妹は黒夢病にかかってしまったのだ。親に捨てられて、『魔女』の烙印を押されて、どうしてまだひどいことが彼女に起こるのか。
「ぼくの目でも舌でも好きなものをあげる。だからどうか、妹を助けてほしい。ずっとそのまま、夢のなかで護ってあげてくれ」
『ヘンなことを願うんだな。わかった。オレは
「ぼくはトーマ。苗字はないよ、もう」
少年と悪魔は契約した。
彼女の眠りを永遠に妨げないために。
(あなたにとっては、現実のほうがずっと、悪夢より恐ろしいものだったのですね)
彼らは昨晩のように、黒夢病患者を受け入れている教会や修道院でしばらく彼女を静かに眠らせたあと、処理の前日に騒動を起こして逃げることをくり返していた。トーマがマーロウたちの讃美歌に加わりにきていたのは、彼女たちの歌声を通して、いつがそのときなのかを見極めていたからだ。
蒼白い焔のなかで、クラリスはトーマの歌声に自分の歌声を重ねた。息はできなかったが、なぜか焔は衣服や肌を焼かなかった。
焔の熱からは魔女——ユーリの感情が伝わってくる。
(……この子はただ、彼らを守りたいだけ)
悪夢の苦しさにも、現実の恐ろしさにも、まだ幼なすぎる彼女は気づいていないようだった。それでも夢ごしにトーマを、そして新たな兄になったリューミンの危機を察して、とっさに能力を使ったのだ。
(……彼らはたしかに、私の救いなど求めてはいなかった。けれど、そうとわかったところで、私は手を伸ばすことをやめられない——たとえそれが彼らにとっては救いでなかったとしても、私は私のために、彼らを救う)
クラリスの歌声は川に、夜空に響いた。
獏王たちは唖然としてその姿に目を奪われる。
焔は聖火にも業火にも見えた。彫像のように微動だとしない漆黒のシスターは、息継ぎもなく讃美歌を歌いつづけている。この世の終わりを思わせる美しさと、一切を浄化してしまうような禍々しさとが一つに重なる。
『……最ッ高』
獏王の目が爛々と輝いた。
あまりに凄まじい光景に、トーマは思わず歌うことをやめてしまった。
それでもなお歌いつづけるクラリスに、おそるおそると、新しい歌声が重ねられる。
『なぜ泣く なぜ泣く……』
水虎は探るように、たどたどしい旋律を紡ぐ。そうしてクラリスに問いかける。
(本当の救いとはなにか……)
黒夢病に囚われたままのユーリは救われているのか。
自分の行いは間違っていないか。
どうしたらトーマとユーリは笑顔になれるのか。
(私の刺繍が白ければ、答えられたのでしょうか)
クラリスには、正解を教えることができない。
(愚かな私たちは、ただみずからの思う救いを信じるしかないのです。……たとえそれが独りよがりで、本当に救われる人などいなかったのだとしても)
水虎はぴたりと、歌をやめた。
白濁とした目が、ギョロ、とユーリに向けられる。感情のない視線に怯えて、トーマは腕のなかのユーリを抱えなおそうとした。
だがそれは叶わなかった。鋼鉄の鱗が被う冷たい身体が、彼をその場から突き飛ばした。トーマは川に落ち、無防備になったユーリの上には、牙を剥き出した虎頭が迫る。
「——ッ!」
そのとき少年がなんと叫んだのか。
言葉にならずとも、不思議とわかるものらしい——コクヨウはトーマを見つめて聞く。
『いいんだな?』
泣きだしそうな顔は一瞬戸惑うように固まったが、水虎がユーリの腕に爪を立てようとすると、反射のようにぐっとうなずいた。
その合図を待っていたとばかりに獏王は水虎に飛びかかった。
頭に喰らいつくと、彼のすべてを体内にしまってしまおうとするかのようにぐいぐいと丸呑みにしはじめる。
水虎は無抵抗だった。
そこでようやくトーマは彼の目的に気づいたが、慌てて駆け寄ったときにはすでに、すべてが獏王の腹のなかだった。
ふっと、焔が消える。
クラリスは川のほとりへ足をひきずると、膝から崩れ落ちた。
激しく肩で息をするそばに、腹を重たげに揺らしながら獏王がやってきて、寄り添うように身をおろす。顔を伏せるとすぐに寝息を立てはじめた。
座りこんだ少年の目からは、ぼろぼろと涙があふれ出る。両腕は力なく地面に垂らされて、喉からは激しい嗚咽が漏らされる。
「なんで……なんでっ!」
冷えきった手の甲に、かすかなぬくもりが重なった。
懐かしい葡萄色が、舞う月明かりに輝く。
「にーに! きれい!」
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