第13話 黒シスターと魔女
ザッハトッシュ修道院に新たなシスターの名が加わってから、数刻が経ったころ。
シスター見習いシンシアは、朝食に向かう未成年の修道女たちの群れを離れて、黒夢病の患者が眠る建物へと足を急がせていた。
鮮やかな金髪が修道着の背中に跳ねる。少女たちは朝の礼拝までは頭巾を被らない簡単な格好がゆるされていたが、そのなかで常に折り目正しく身支度を整えていた彼女が髪をあらわにするのははじめてのことだった。
昨晩の騒動では少女たちと真っ先に逃がされたシンシアである。
避難誘導をしていたオリーブが、悪魔の襲撃を受けて眠りについたと耳にした。
居ても立っても居られなかった。荷馬車はじきに彼女たちを乗せて、海割れへと運んでいくだろう。自身が駆けつけたところでできることはないとわかっていながら、それでもオリーブの顔を見ずにはいられなかった。
レッドウィルの生垣、黒い鉄門が見えてくる。息を弾ませたシンシアは、荷馬車の前に一人の修道女が佇んでいるのを見つける。
「シス、ター?」
そう呼んでいいのか、彼女は迷った。
頭巾は漆黒で、シスターの証である白の花模様がない。その代わり黒の花が、黒地に刺繍されてあるとは思えないほどはっきりと浮かび上がって見えた。そのきらめきはオズクレイドが花嫁に贈る糸と同じものである。
シンシアの声に気づいて、黒のシスターがふり返った。
初対面のときの印象と変わらない、シスターの模範のような楚々としたふるまい。剣を通したようにまっすぐな姿勢。赤い瞳はたっぷりの慈愛をふくんで、優しげに微笑む。
その手には彼女の顔よりもずっと大きい剪定バサミが、重たげに握られていた。
「あ、ちょうどいいところに」
「く、クラリス、そのハサミは……」
頭巾の刺繍についてたずねるつもりが、剪定バサミの衝撃に意識を持っていかれる。
「シンシア、馬車の構造には詳しいですか」
「ばしゃのこうぞう」
「はい。黒夢病の方々をつれていく手段は、この荷馬車だけなのですよね。いまのうちにこっそり壊してしまおうと思ったのですが、さすがにこれほど大きいものを私一人でバラバラにするのは難しいと思いまして。馬車に弱点なるものがあれば、ぜひご教授いただきたいと……」
(あら、固まってしまいました)
目と口をめいっぱいに開いたまま、少女は気を遠くしたようだった。
『そりゃこの状況でシスター面されたら、誰だってこーなるだろ』
(そ、そんなことを言われましても……私、シスターですし……)
『……あんだけピーピー言ってたのが、あの卵男の言葉だけでまるきりひらきなおっちまうんだもんな。……ま、とりあえずそのでっけぇハサミ隠せ。フツーにキョーキだから』
言われるまま、クラリスは素直に両手を背中にまわす。
「シンシア」
「あ! こ、構造などは存じ上げませんが、車輪など壊してみてはいかがでしょう!」
「車輪! たしかにそうですね! 足がなくなってしまえば、もうどこへも行けませんから……」
『あんたちょっとわかっててやってるだろ』
コクヨウの呆れ声に、クラリスはにこやかな笑顔でもって答えた。顔じゅうの筋肉を使って表情を見せるシンシアのことを、ひどく愛らしく思っていることはたしかだった。
さっそくその場に屈みこんで、車軸の留め具を外そうとする。すると隣の車輪にはシンシアが手をかけた。
「シンシア、いけません。私にはオズさまのご加護がありますが——」
「シスタークラリス、やはり夢添いの儀を終えられたのですね! おめでとうございます。一瞬、神父さま方のおっしゃっていたように本当に悪魔と契約してしまわれたのかと」
「ええ、それはしました」
ついにシンシアは目を開けたまま失神したかに見えた。
さすがにあわれに思って、クラリスは石のようになる彼女の背を撫でてやる。
「大丈夫です。この刺繍の通り、オズさまから正式に認めていただいたことですから」
「そっ、えっ」
「昨晩の騒動は私ではありません。あのとき黒夢病にかかってしまったシスターたちを目覚めさせるため、契約を結んだのです」
ようやく事の背景が見えてきたらしい。シンシアは真面目な顔付きになって、クラリスの手にみずからの手を重ねた。
幼さゆえの肉つきを持つやわらかな手のひらが、真摯に気遣う。
「シスター……」
「ありがとう、シンシア。でも私、後悔はしていないのです。あなた方とは異なる道へ逸れてしまいましたが、私の選んだ道でしかできないことがある」
ようやく外れた留め具を置いて、クラリスは両腕で木の車輪を外す。よいしょ、と声を漏らしながら、重たげに地面に下ろした。
「シンシア、あなたは手伝ってはいけませんよ。神父さまにとがめられてしまいます」
「……シスター。わたくし、思うのです。こういうのはバレなければ良いのですわ」
さっと周囲を見渡したかた思うと、さきほどまで怯えや驚きに見ひらかれてばかりいた翡翠の瞳が、いたずらっぽく細められた。——やはり血縁者なのだと、クラリスは目を奪われた。そうして余裕のある微笑みを浮かべれば、彼女はおどろくほどにオズクレイド・ザッハトッシュに似ていた。
当然、卵ではないほうに。
まだ指の育ちきっていない華奢な手が、地面に横たわる二つの車輪にかざされる。
風もないのに髪が浮き上がって、麦色の金髪が、タンポポに似た明るい色に光った。
「し、シンシア」
「烈火の花」
薔薇が散ったように見えた。
だが花弁からは熱が立ち昇る。
それらが焔の花だと気づいたとき、二つの車輪は真っ黒な炭に変わり果てていた。
「な……」
『なんだいまの……』
シンシアは、し、と人差し指を立てる。
「わたくしは『魔女』なのです。家を追い出され、きっとオズクレイドさまにも拒まれる」
(オズさまはそういうのたぶん好きです!)
とは、さすがに口にできない空気だった。
「オリーブが、黒夢病にかかったと」
「ええ……私もさきほど聞きました」
うつむくクラリスとは反対に、シンシアはぐっと喉を反らせた。
「なにもできないと思いこんでおりました。罪とされたこの力を使うことなど考えもせず。ですがシスター、あなたに気づかされたのです。罪とはきっと、自身の決断に責任を持たないこと。少なくとも、わたくしにとっては」
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