第12話 夢に添い、花を贈る

『まあ、まずはこっちに入ってよ』


 オズクレイドはコクヨウの殺気を、そよ風のように受け流した。人好きする笑顔はいくらかほどけたが、うす紅色が透ける頬はゆるく持ち上げられたまま、寝室の扉を指さす。


 はっとしたクラリスは、大慌てで頭を下げる。すっかり機を逸してしまった挨拶をそうして律儀に行ったあとで、人や物に触れられないらしい彼の代わりに扉を開けた。


 『ゆりかご』は、窓のない部屋だった。

 ランプ一つが光源となって、暗闇を薄める。壁にはいくつもの絵画が飾ってあるらしかったが、額縁がほのかに光を反射するだけで、どのような絵なのかまでは確認できない。足の沈むような絨毯の中央に、寝台が一つ。天蓋の紗帷が、淡く照らされている。


 パチン、と乾いた音が鳴った。


 そのとたん、ランプと同じうすオレンジ色の明かりが花吹雪となって部屋にあふれる。


 目を刺すほどのまばゆさではなかった。おだやかな光のなか、鳴らした指を肩のあたりに掲げたままのオズクレイドは言った。


『ここは夢が濃いからね。このくらいのことはぼくにでもできる』


 力なく、手が下ろされる。


『——このくらいのことしか、ぼくにはできない』


 クラリスは息をのんだ。

 花の夢守りオズクレイド・ザッハトッシュは、彼を裏切ったシスター見習いに、その尊い御首を深々と垂れたのだ。

 なにが起こったのか、すぐには理解できずあっけにとられてしまったあとで、ただちに彼女は絨毯に伏せた。額を床にすりつけた彼女のもとに、オズクレイドはしゃがみこむ。


 いまにも壊れてしまいそうなほど震えている細い肩に、彼の手のひらは届かない。


『クラリス、顔を上げて。謝らなければならないのはぼくのほうだ』

「どうかおやめください……そのような……オズクレイドさまに頭を下げられたら、私などはいったいどうしたら……私はあなたさまへの祈りをやめ、私欲のために悪魔と……」

『そのおかげで、マーロウ、ティルミス、レーナ……ぼくの愛しい花嫁たちが救われた。きみたちの祈りは、ぼくのもとまで届いていたんだ。けれどぼくの手はきみたちに届かない。ばかみたいに花を降らせるばかりで、怯える肩を抱きしめてあげることすらできない……』


 帷に閉ざされた寝台を、翡翠の目がうらめしげに見やった。


『クラリス、ぼくはきみに感謝してる。同時に、辛い決断をさせてしまったことを心から申し訳なく思ってる。……ぼくの夢はそう美しいものじゃないよ。もどかしいばかりだ』


 切なげな声に、クラリスはわずかに顔を上げた。目が合うと、彼は泣きそうに微笑んだ。


『ねえ、きみマーロウからなにか、ぼくに聞くよう言われていなかった?』

「え、えっと……」


 口にするにはためらいのほうが大きかったが、優しいまなざしにうながされて、たどたどしく言葉にする。


「い……祈りは、祈る相手によって、罪に変わるのでしょうか……私の願いは……」

『うん、みんなを救いたいっていうきみの願いは、ぼくと一緒。ぼくにはそもそも祈る相手がいないけど、きみにはたまたま、おあつらえ向きに彼がいた。ねえ、コクヨウくん』


 視線を向けられて、クラリスの背後にいたコクヨウは顔をそむけた。警戒はいまも解かれていないようだったが、彼なりに思うところがあったのか、殺気はなくなっていた。


『ぼくはきみになりたいくらいだよ』

『キモ』

「コクヨウ!」


 オズクレイドは愉快そうに笑った。


『祈りは祈りだよ。良いも悪いもない、祈っちゃったんだもの。たとえば世界征服なんか祈ったって、ぼくはそれを罪だなんて思わない。……リーモルト卿なんかはなんていうかわからないけどね。これはあくまでぼく論』


 杜の夢守りの名前を出しておおげさに肩をすくめたあと、彼はすっくと立ち上がった。


『善悪が問われるのは、祈りに手を貸す者のほうじゃないかな。コクヨウくんがどういうつもりでクラリスを助けたのか……たとえば黒夢病をさらに蔓延させるつもりだとか』

『ハ? んなめんどいこと考えるかよ』

『まあまあ例え話。クラリス、きみの祈りが国を滅ぼしたって、ぼくはそれを罪だとは思わない』


 オズクレイドは自身の眠る寝台まで歩いていくと、そばにくるよう視線でうながした。


 おそるおそるそれに従ったクラリスの耳もとに、彼は声をひそめてたずねる。


『ちなみに、きみから見て彼ってどう』

「……正直、コクヨウについてはわからないことが多いのですが」


 なぜああも結婚——契約を望んだのか。

 ただペンダントから解放されたかっただけなのか、彼の言った『悪夢の実』としての本能だったのか。夜間は姿を現せるようになった彼が、これを機にクラリスを裏切る可能性もゼロではない。出会う以前の記憶がないという発言すら、真実である確証はないのだ。


「ですが、悪いひとでないと信じています」


 ちらと、コクヨウに目を向ける。

 彼はあからさまにクラリスたちに背を向けて、自身の髪の尾をいじっていた。


『そう。信頼しているんだね』


 オズクレイドは少年のように目を細めた。


『……ああ、なんだかこれから、すごくいい夢が見られそうな気がする。さあクラリス、ちょっとびっくりさせてしまう見た目かもしれないけど、恐れずぼくの手に触れてほしい』


 彼が帷を見やるので、クラリスはそっと薄布に手をくぐらせて、寝台のそばに立った。


 こんもりと積もった毛布はよく乾いていて、ほのかに陽の匂いがした。はち切れるほど羽毛のつまったふくよかな枕とのあいだに埋もれるようにして、うす紅色の卵——オズクレイド・ザッハトッシュは眠っていた。


 言葉を失うクラリスのそばで、彼はいたずらに成功した子供のように笑う。


はここ』


 何にも触れることのできない彼の手が、赤子ほどある卵の表面を撫でた。その手に重ねるように、クラリスも触れる。


「オズクレイドさま……」

『オズでいいよ。クラリス、愛しい子。ぼくの花嫁にできなかったことは口惜しいけど、せめてきみの旅路に祝福を贈らせて』


 良い夢を——囁きを合図にして、クラリスの純白の衣服に黒の花びらが舞いはじめた。


 漆黒が降り積もっていくベールに、妖しく光るの糸が花の刺繍を刻んでいく。


『どうか臆しないで、胸を張って、その生きざまをぼくたちに見せつけて』

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