第9話 堕ちた修道女

 夜明け間際の空が、ほの白い花びらを窓から降らせはじめる。礼拝堂は霞が満ちるように、ぼんやりとすみれ色に染まっていく。

 シスターたちの歌声は束となり、川となり、オズクレイドの二十一の夢を流れる。

 この川はいずれ東の丘を越えて、海割れにたどり着く。救えなかった人々のために、もはやできることは共に流れてしまうことだけだと、彼女たちは諦めてしまっている。


(シスターマーロウに、皆が同調している……この川は、彼女たちの涙……)


 クラリスの頬にも、涙がつたう。


 すぐ触れられるほど間近にいる人に、手が届かないもどかしさ。

 救うことができないふがいなさ。

 今日はじめて黒夢病の実情を知ったクラリスでさえ、悔しくて枕を濡らしたのだった。


(シスター、あなた方の真心は、決して海に流れてしまっていいものではありません。目覚めさせることが叶わずとも、彼らの悪夢にあなた方が寄り添ったことは変わりません)


 無垢な祈りがどこにも届いていないはずがない。彼女たちの歌声が虚空に消え去ってしまったとは、クラリスには思えなかった。

 目に見えるかたちで、望むような結果で現れなくても、少なくともいま礼拝堂を満たす讃美歌は、外れの建物で眠る黒夢病患者たちのもとまで聴こえている——


(主に代わって救いを与えようとする、その罪は、ただ私だけが背負えば良いものです)


 ふと、歌声がやむ。


 『幼き花の夢守りに捧ぐ子守唄』は一番しかない。歌いおわったのだと気づき、次はなにを歌うべきか、うかがおうとしたシスターたちの影はあとかたもなく消え去っていた。


 夢でも見ていたかのように、一人ぼうぜんとたたずむクラリスの足をなにかが押した。見おろせば、かろうじて輪郭を残す獏王が像のような鼻先をぺたぺたと触れさせていた。


『な、言っただろ。俺は約束を違えねぇ』

「シスターたちはこれで、無事に目を覚ますのですか?」

『ああ。もう少し陽が高くなったら、自力で起きんだろ。あんたら身体んなかに時計飼ってんじゃねーかってくらい朝に強ぇからな』


 いつもは余計に思うその憎まれ口に、これほど安堵することはそうないだろうとクラリスは息をついた。ついでに膝を折って、大型犬を相手にするように獏王を抱きしめる。


 想像よりも、もちもちとしていた。


「ありがとうコクヨウ」

『……おう。あんた、ためらいなく来るな。怖くねぇのかよ』

「怖い……? 神々しい、ではなく?」


 鼻がクラリスを押しやった。照れたらしい。

 修道女として、それまでじゃれあうような触れ合いをしたことがなかったクラリスはこれが新鮮で、嬉しくなってさらに抱きつこうとしたところで獏王は姿を消してしまった。


 夜と朝のあわいである。


「扉が開くぞ!」


 男の声があった。

 間を置かず、礼拝堂の重たく閉ざされていた扉に光の筋が入る。


 唐突なまぶしさにクラリスは目をつむった。そのあいだにも扉は開け放たれ、駆けつけていた司祭をはじめ大勢がなだれこむ。


 彼らが目の当たりにしたのは、無惨に散らばる長椅子と、あちらこちらに倒れ伏すシスターたち——そのなかで一人身を起こす、ここにいるはずのない寝巻き姿のシスター見習いだった。


「まさか……」


 息をのむ気配。

 誰かが漏らした呟きがはらむ怯えを、クラリスは敏感に感じ取った。


 彼女の赤色の瞳が、頼りなげに揺れる。


『……待てクラリス、あんたまさかバカ正直にゼンブ話すつもりじゃねーだろうな』

(でも、悪魔と契約したか問われれば、事実私はしてしまったわけですし……礼拝堂のなかがめちゃくちゃになってしまったのも、だいたいはコクヨウのせいですし……)

『マジかバカ』


 クラリスとて、まるきり嘘をついたことがないわけではない。故郷の修道院では、シスターたちからコクヨウをかくまったり、おねしょをしてしまった子の後始末を内緒で手伝ったこともある。そもそも『誰にとっても理想的なシスター』であろうと常に気を張る彼女は、天性の嘘つきであるとさえ言えた。


 だが彼女は、みずからの保身のために嘘をついたことはないのだった。


『ペンダントのこと隠すのと一緒だろ。いつもみてぇに俺をごまかすのとどう違ぇんだ』

(いいえ、もう、私とあなたは一つになってしまいましたから……。あなたを守ることと私を守ることは、同じことです)

『一つに……って、まぁ、そーだけど』


 戸惑ったようにコクヨウがくちごもる。

 だが二人のやり取りを男たちは待たない。胸に下げたオズクレイドのペンダントを握る司祭を先頭に、彼らはおそるおそると近づいてくる。クラリスの挙動しだいでは、一気に飛びかかられて拘束されてしまいそうだ。


『クラリス、あんたはもうシスターにはなれない。神じゃなくて俺を選んだんだ。堕ちたんだよ。そのことをしっかり自覚しろ』

(堕ちた……)

『シスターの矜持なんか捨てちまえ。あんたはあんたのために生きるんだよ。そんくらい簡単だろ、あんなふてぶてしい願い持ってんだから』


 たくさんの人々を救いたい。

 神の代わりに、この手で。


 ……ああ、堕ちたのだと、改めてクラリスは理解した。傲慢な望みだとわかっていながら、彼に祈ったことを後悔していないのだ。


 このときから、修道女であることをやめよう。自分は自分のために生きる。そう決めて、クラリスはおもむろに口を開いた。


「——あ、悪魔と契約、してません」


 蚊の鳴くような声だった。

 男たちは聞き取れず、なにか呪詛でも吐いたのかもしれないと怪訝な顔を見合わせる。

 コクヨウは頭を抱えていた。


「クラリスは私たちを救ってくださいました」


 そのときやわらかな温もりがクラリスの背を包み、はっとするほど力強く抱きしめた。

 海色の瞳が、安心させるように彼女をのぞきこむ。


「ええ、神父さま。あの方は、美しい讃美歌で私どもを救ってくださったのです」

「恐ろしい悪夢に閉ざされた私たちに寄り添い、心が挫けぬよう、その歌声で励ましてくださいました」


 一人、また一人と起き上がるシスターたちが、眠りから覚めたばかりとは思えない明瞭さで訴えかける。その声は詰めかける者たちをたじろがせ、訝しむ足を止めさせた。


 マーロウがいま一度クラリスを抱きよせる。

 絶対に助けるという強い意志が、小さな手のひらから伝わった。

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