第8話 獏王の食事
「姿が消えかかっています! コクヨウ、あなたもしかして夜にしか発現できないのでは」
月明かりの花びらが減るごとに、コクヨウを成す色が淡くなっていく。掴まれた髪の先端を見て、彼は苦々しく舌打ちをこぼした。
「ようやくだってのに……しかたねぇな」
「わっ、ちょっと! なにするんです!」
しなやかな腕がクラリスに巻きついた。
自分よりも高い体温と、ひどくゆっくりとした鼓動が頬に伝わる。
シスターに抱きしめられたときの沈みこむような柔らかさとはまったく異なった。女子修道院で育った彼女が、発達した胸筋の弾力など知るよしもなかった。男に抱きしめられているのだといやでも実感させられて、思わずもがいて抵抗するも、びくともしない。
「うるせぇな暴れんな」
「わかりましたなにか儀式の一環なんですね。動かないので早く終わらせてください」
「儀式じゃねぇよバカ。……ま、動かねぇでいてもらえんのは助かるけど」
おおげさにため息をつきながら、彼はクラリスのすべらかな灰青色の髪に頬を寄せた。
猫がじゃれつくようなふるまいに、遅ればせて彼女は気がつく。
(あ、甘えているの……? まさか……いいえ、彼がそれほど私のことを嫌っていないというのは、わかっていたことですけど……)
むしろ、好意的に受け止められているだろうことは感じていた。それでも、常日頃の物言いからは考えられない行動である。
どうしていいかわからず、宣言通り固まるクラリスに、コクヨウは真面目な声で言った。
「いいかクラリス、シスターたちを助けたいなら、俺と歌うんだ。あんたの歌声が一緒なら、こいつら全員の悪夢を発現させられる」
「そ、そんなことをすれば、あの悪魔のようなものがたくさん出てきてしまうのでは」
「いや、悪夢の実はこんなすぐ育たねぇし、とくにあれは——俺もそうだけど、人間と契約してる特殊なヤツだ。こいつらから現れるのはせいぜい悪夢の雑草で、キレーにむしってやれば、埋もれてた宿主本体が出てくる。で、そこを」
ガチッ、と勢いよく
「俺が喰らったら、そいつはもう永遠に悪夢を見ない。目も二度と覚まさねぇけどな」
「だめですそんなの……!」
「だからあんたが歌うんだ。悪夢に怯えて縮こまる心を開かせて、なだめすかして、自分から目を覚ますように誘導する。できるだろ」
(できる、のかしら……私、そんな)
昼間にマーロウたちと何曲も歌って、それでも一人も目覚めさせることができなかった記憶が、重たく胸にのしかかった。
(いいえ……起きるまで何度だって歌うのです。喉が裂けても、心が通じるまで)
「わかりました。私は人々を救うことを望んで、あなたはそれを叶えると言った。そのあなたができると言うのです、私は信じます」
「できる。俺は約束を違えねぇ。さあ、まずは景気づけに一曲、俺と歌うぞ。なにがいい」
「『おおテレーゼ川』」
「信じらんねぇ、悪魔と結婚した直後に讃美歌かよ。どういう神経してんだあんた」
そう言われても、クラリスが知る曲のほとんどは讃美歌であったし、ずっと共にいたコクヨウにしてもそれは同じことだろうと思われた。むしろこの状況で童謡を歌うほうがおかしな空気になると配慮した結果である。
「まあいい、さっさと歌うぞ。陽が昇れば俺は消える。悪夢を喰らうならいまのうちだ」
最初の一節はコクヨウが歌った。
ふだんぶっきらぼうにしゃべるくせに、歌声は丁寧で、いやに心臓を高鳴らせる。妙な色気があるのだ。そのうえ、はじめて肉声となって堂内に響いた彼の声はこれまでになかった熱をはらんでいて、クラリスはのまれてしまわないうちにあわてて声を重ねた。
(ああ……心地良い。彼と歌うのが一番楽しい。なんだかんだ言って、コクヨウも楽しくなっているのが伝わってくる……)
はじめて一緒に歌った夜のことが思い出されて、クラリスは自然に身をコクヨウに寄せていた。もうシスターにはなれないという諦めが、本当はずっとそうして彼に触れてみたいと思っていたことを素直に認めさせる。
異変はすぐに起こった。床に伏せるシスターたちから、コクヨウが現れたときのような闇が揺らめきはじめたのだ。さらにそこから姿形様々な魑魅魍魎が、巣から大量の蟻が這い出るようにわらわらと溢れだした。
歌をやめたコクヨウが獣の唸り声を出す。
やめていいのかわからず歌いつづけるクラリスのもとから、彼は黒い影となって飛び出した。四つ足となって着地したとき、その形状は人間のそれから大きくかけ離れていた。
一見すると豚に似ていた。肌は真珠のように白い。だが鼻が長く、大きな牙が伸びていた。顔に目玉が三つ、脇腹にも三つ——クラリスは人間の姿の彼を見たときと同じように、歌も忘れて見惚れてしまった。
獣となったコクヨウは獰猛だった。
顔の三つ目は爛々と輝き、口からはよだれが垂れる。
獲物である魑魅魍魎に、喜び勇んで喰らいかかった。
そこからは圧倒的な支配。
暴力的な捕食だった。
理性など残っていないのではないかと疑うほどだったが、彼は倒れるシスターたちを踏まないよう、器用に立ち回っていた。
『ごちそーさん』
べろりと口のまわりを赤い舌で舐めたあとで、獏王は身体じゅうの金の瞳をクラリスに向けた。
『ほら、こっからはあんただろ』
悪夢の雑草がすべて刈り取られてしまうと、シスターたちから立ち昇っていた闇はしだいに人型に輪郭を整えていった。
クラリスのそばには、背丈の低い影が立っている。
顔は見えなかったが、青い瞳は涙に濡れている予感があった。
「シスター、なぜ泣いているのですか。あなた方はどんな夢を見ていらっしゃるの」
紡いだ一節は、マーロウがはじめに歌っていた『幼き花の夢守りに捧ぐ子守唄』。
次のフレーズはマーロウが歌った。
話すときより低く、諦めのにじんだ声。
旋律に乗せてクラリスに語りかけてくる。
(ああ……明日は、荷馬車が行くのでしたね)
丸太のように積まれていく患者たち。
それを手伝う小さな手。
シスターマーロウのしわだらけの手。
彼女はそれを他のシスターに任せない。
見せない。
シスターたちは、本当はその手を、小さな背中を抱きしめたくてたまらないのに。
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