第7話 欲深い祈り

 心臓が皮膚のすぐ下まで膨れている気がした。握りこむ指先が氷のように冷たい。それでも、震える足でなんとか立ち上がった。


 おそるおそる、ふり返る。


 照らすのは、天井そばの窓から降りそそぐ月明かりの花びらだけだった。暗闇をかすかな光がくすぐっていく。


 まずたしかめられたのは、整列から外れたところに転がる木の長椅子だった。真ん中が裂けて、傷口が針のように突き出している。クラリスの呼吸が荒くなる。なによりも彼女が恐れているのは赤だ。壁に、床に、その色を見つけてしまいたくないと怯えながら、目は神経質に探してしまう。


 念入りにうかがい、ついに見つけたのは、壁画のオズクレイドが持つ林檎だった。ほっと肩をおろしたひょうしに、クラリスはちょうど林檎の真下あたりに立体的な黒い影が横たわっていることに気がついた。


 修道着だと直感する。

 とたんに、堂内を浸す暗闇の至るところに同じように横たわる影を見つけた。そのかたちを目が覚えて、次々に切り取っていく。


「なん……なんてこと……」


 それだけ呟くのが精一杯だった。

 おぼつかない足取りで、どうにか近くの影に近寄る。かがみこんで触れれば、温かい。シスターは深い眠りに落ちているようで、胸は規則正しく上下をくり返していた。


「黒夢病……それなら、さっきの恐ろしいものは、悪魔ではなく発現した悪夢……?」

『知らねぇけど、あれは俺と同じモンだ』


 舌打ち混じりに、悪魔が言う。


『いや、もっとタチが悪いかもしれねぇ。契約してやがる』

「契約?」

『そう。……ああ、そうか、思い出したぞ。あれは、俺は、悪夢のだ。宿主と契約して夢から出ることで、悪夢の種を撒いてんだよ』


 言葉にすることで納得したようで、悪魔の声はしだいに昂っていったが、眠るシスターたちと共に堂内に閉じこめられたクラリスに彼の説明を噛み砕いている余裕はなかった。


 ふと彼女は、床についた膝が濡れていることに気づいた。


 いつの間にか足もとに水たまりができていた。よく見ればそれは、眠りにつくシスターから広がっていっている。一瞬いやな予感に襲われるが、水は粘り気なく透明だった。


 見渡せば、ほかのシスターたちからも同様に水たまりが広がっている。異様な気配に、クラリスはその場に立ち上がる。無意識に指が組まれた。この身体はとっさに神に祈ることができるのだと、他人事のように思う。


『来る、避けろ!』


 声に押されるように、クラリスはその場を駆けだす。


 濡れた小さな影が、いましがた立っていたその場所に爪を食いこませていた。ギチギチと耳障りな音は、歯を軋ませるものか。


『おい! 俺とケッコンしろ!』

「主よ……主よ! お助けくださいオズクレイドさま! オズクレイドさまお助けを」

『んなことは転がってるシスターどもがさんざん祈っただろうよ! いいから言うこときけって! このままだとあんた死ぬぞ!』


 オズクレイドをかたどるペンダントを握りながら、なおもクラリスは神に祈る。


 そうしながらも、どこか胸のうちでは諦めていた。これほど多くのシスターが祈って起きなかった奇跡が、どうして自分などに起こるだろう。オズクレイドの夢見る世界において、クラリスというシスター見習いはここで退場する。夢のなかでは、いま見ている光景が次の瞬間には泡沫に消えることもある。


 せめて最期まで祈ろう。


 化け物が正面から歩いてくる。ひた、ひた、水の張った足場に小さな波紋が浮かぶ。


 いよいよ膝をついたクラリスがもう逃げださないことを、わかっているようだった。暗がりのなか、虎のような顔がにやりと嗤う。


『俺に祈れ!』


 その声はいっそすがるようだった。


『俺は神じゃねぇから、なんだって、あんたの望むことゼンブ叶えてやれる! 願えよ! 人間なんだから、つーかあんたほんとはそんな信心深くもねぇんだし、いくらだって欲深くなれんだろ!』


 祈りに閉ざされていたまぶたが、ふと持ち上げられる。


「……なん、でも」


 座りこむ彼女の足もとには、見覚えのある顔が眠っていた。頭巾からこぼれる白髪。海のように美しい瞳はまぶたに隠されて、細い涙がつたっていた。


「救え……ますか」


 ペンダントを握る手に、再び力が込められる。


「ここにいるみなさんを……いいえ、もっとたくさんの方々を救えるなら」


 悪魔の返事は早かった。


『当然だろ、この俺を誰だと思ってんだ』


 クラリスの足もとから闇が立ち昇った。冷気のように揺らめき、床を舐めると、水たまりは幻覚だったかのように消え去っていく。

 化け物は足を止めた。大きな目を見ひらいて、彼女のようすをうかがいはじめる。


『もうあんたは承諾したからな。病めるときも健やかなるときも俺たちは離れられない。いいかよく聞け、俺は獏王。名はコクヨウ』

「私はクラリス」

「クラリス。……ったく、ようやく呼べた」


 透き通った琥珀に、亀裂のような瞳孔が閉じこめられている。


 髪は黒く、首の後ろで一つに編まれて、尾のように腰まで垂れていた。蔦模様が刺繍される白い上着は修道着のように丈が長く、左右に腰までの深い切れ込みが入っている。下に履いている黒いズボンはゆったりとしたもので、これまで見たことのない服装だ。


 絵か彫刻でしか見られないような、美しい男だった。十五、六ほどの少年を想像していたために、すぐにはこの男が悪魔であると理解できなかった。神だとさえ思った。


 息をすることも忘れたくちびるをやわらかな温もりが覆ったが、完全に惚けてしまったクラリスはくちづけられたことに気がつかなかった。


 コクヨウは化け物に向かって、唸り声をあげた。人間の出せる声ではない。獣が威嚇するときの、腹の底に轟くような低い音だ。それでようやく彼女ははっと我にかえる。


 化け物はわかりやすくたじろいだ。

 歴然とした力の差を感じ取ったことに、見ていたクラリスも気づいた。


 コクヨウは愉快そうに鼻を鳴らす。


「誰の嫁に手ぇ出したと思ってんだよ」


 いやな予感がして、さらに凄もうとするコクヨウを止めようとしたとき、化け物はぱっとその場から姿を消してしまった。


「なっ、逃げやがって!」

「ま、待ってくださいコクヨウ!」


 跳ねる三つ編みの尾をとっさにクラリスは掴んだ。

 その先端は、透けて消えかかっていた。

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