第6話 夢のうちにおもひぬ

 クラリスは雨音に耳を澄ませていた。


 いつから聞き入っていたのか定かでない。夜の修道院の暗い石壁を、水飴のような雨が切れ目なく洗うさまを想像していた。間近で見ているような、やけにはっきりとした光景だったので、夢を見ていたのかもしれない。


 やがて水音は川流れのものとなり、リンデバウムに沿うテレーゼ川が思い起こされた。街からこぼれた月明かりが、鏡のように穏やかな水面を泳ぐ。そこへふと波紋が浮かんで、



 かたち小児のごとし

 甲は鯪鯉せんざんこうのごとく

 膝頭、虎の爪に似たり



『なにヘンな夢見てんだ』

「んあ」


 悪魔の声に、急激に意識が浮上した。

 ぱちぱちと赤い瞳を瞬かせる。

 開いたままの口からよだれが垂れようとする気配があったので、慌てて閉じた。すでにいくらか濡れていたあごを手の甲でぬぐいながら、頭上の窓を見上げると、さやかな月明かりが舞っていた。雨音は聞こえない。


「ゆめ……私、なにか寝言でも」

『そらもうはっきり。かたちがショーニだとか甲がセンザンコーだとか。あんたのしゃべり方じゃねぇし、なんかいやな感じのする夢だったから気持ち悪くて起こした』


 悪魔でもそういったことを気持ち悪いと感じるものなのかと、まだぼんやり寝ぼける頭は少し愉快に思った。それからなんとなく、故郷の修道院で怖い夢を見たと泣いていた子供たちを思い出して、彼に姿があれば頭を撫でてあげられたのにともどかしくなった。


 クラリスは身を起こして、毛布をかばりとめくりあげた。とたんに凍えるような夜の空気が襲いかかってきて、夜着のワンピースごしに肌を突き刺したが、ぐっと我慢する。


「怖がらせてごめんなさい。お詫びに一緒に寝てあげますよ」

『あんたまだ寝ぼけてんな』


 悪魔が盛大なため息をついたときだった。

 外から、なかば悲鳴のような女性の叫び声が飛びこんできた。


「逃げてください! 逃げて! 早く!」


 その声は夜気よりも鋭くクラリスの頭を刺した。彼女はすぐに寝台を飛び降りると、寝巻きの裾をひるがえして外に駆けていく。


「なにがあったんですか!」

「ああ! ……ああっ! クラリス!」


 叫んでいたのはオリーブだった。そのそばに二人、彼女たちも寝巻き姿だ。

 起き出した人々でにわかに騒然となるなか、クラリスを見つけて一瞬表情を崩しかけたオリーブは再び悲鳴のような声を張る。


「みなさん街のほうへ逃げてください! 悪魔が出ました! 急いでここから離れて!」

「悪魔が?」


 黒夢病が印象深くなっていたせいで、クラリスはてっきり悪夢の発現を想像していた。


 彼女の知る悪魔といえば、自身のペンダントに宿る彼だけだ。


(あなたじゃないですよね)

『あんたとケッコンさえすりゃ俺だってこれくらいの騒ぎ起こせる』


 妙な対抗意識を燃やしていたが、やはり彼が関わっているわけではないようだった。


「クラリス、あなたも早く逃げて! いまシスターたちが悪魔を礼拝堂に留めてくださってるの。神父さまもほかの子たちが呼びに行ってくれた。見習いは危ないから、みんなと一緒に避難してって、シスターマーロウが」

「わかりました。私、まだ避難できていない方々に声をかけてきます」


 混乱する人々の声が背後に増えていく。

 クラリスは、彼らを背にしたまま駆けだせなかった。全員が無事に避難できたかを確認するためには、最後の一人になるほかない。


 引き止めようとするオリーブに手をふって、人波を掻き分ける。


 悲鳴がうねる。

 大小様々な手が、荒れる水面のようだった。

 誰かの涙か汗か、水飛沫が顔にかかったような気がして、クラリスは頬をぬぐう。

 激しい水流に足をとられれば、瞬く間にのみこまれてしまいそうだった。そのときふと彼女は夢を思い出した。ついさきほど、悪魔に起こされる寸前まで見ていた光景。真夜中のテレーゼ川が、目の前の人波に重なる。


 ほとりに、一人の少年を見つけた。


「あの子!」


 遠目に、あの美しいボーイソプラノの少年だと確信した。


「待って、いまあの子が出てきたところって、礼拝堂じゃなかったかしら」

『ああ、たぶん』


 のんびりとした悪魔の声を残して、クラリスは大慌てで少年のもとに駆けた。彼はどこにも行こうとせず、その場に立ち尽くしている。礼拝堂から出てきたことも気がかりだったが、開いたままの扉の正面に無防備に佇んでいることがあまりに危険に思えた。


 だが猛り狂う人波は背の低い彼を何度も隠して、そのうちに大きな波がざぶんとのみこんだきり、まったく姿が見えなくなった。


 ようやく人の流れを脱して、少年のいた場所にたどり着くも、あたりにそれらしい姿は見つからない。


「どこに……」

『あっクソ早く逃げろ! 誘導だバカ!』


 悪魔が叫ぶのと、クラリスがなにかに突き飛ばされて尻もちをつくのとは同時だった。


『避けろ!』


 とっさに身を転がすと、もといた場所に小さな影が着地した。

 それは三、四歳ほどの人影に見えた。

 だがひらめく月明かりは、鋼鉄のような鱗の肌を照らしだす。


 息をするのがやっとで、悲鳴も出なかった。


 ぎょろりとした目玉は死んだ魚を思わせた。

 ひた、と水かきのある手が地面についた。曲げられた膝の先、虎の爪のような鋭利な突起が、狙いを定めるようにクラリスに向く。


 彼女の腰が後ずさりする。

 大きく開け放たれる礼拝堂のほうへ。


『——おい、そっちに入るな! 閉じこめられるぞ!』


 悪魔の必死の呼びかけは届いていた。

 だがクラリスの思考を止めるように、化け物の金切り声が耳をつんざく。白濁とした目玉が見ひらかれ、水を滴らせるうす青い両手が彼女の足につかみかかろうと伸ばされた。


 頭より先に身体が動いていた。

 化け物から目を逸らせないまま、立ち上がって数歩たたらを踏むように後退したところで、なにかにかかとをつまずかせてまた尻もちをついてしまう。


 それが礼拝堂の扉の下枠であることに気づいたとき、ずっしりとした丈高い扉がおもちゃのようなあっけなさで乱雑に閉じられた。


 堂内を震わせる大きな音。

 化け物は扉に遮られたが、それで安心することはできなかった。悪魔の言ったように、まんまと閉じこめられてしまったのだ。


 そしてなにより彼女を恐怖させるのは、シスターが集っているとは思えないほどの静寂。


(私はいま、なにに背を向けているの……)

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