第5話 触れられない

 クラリスたちは五曲歌ったが、目を覚ます者は一人もいなかった。


「私が知るかぎり、十年に一人いるかというほどの奇跡ですから。それにいまでなくても、夜中にふと目を覚ますかもしれません」


 マーロウは優しく声をかけてくれた。

 荷馬車で運ばれる黒夢病の患者を、これまで何度も見送った彼女のほうが、ずっと胸を痛めているにちがいない——気遣わせたことが申し訳なくて、クラリスは自室に戻るなり寝台に倒れこむようにして顔を伏せた。


「うぬぼれていました」

『俺は懺悔なんてキョーミねぇぞ』


 気にせず、枕に顔をうずめたままのくぐもった声で続ける。


「当然、救えるものと。リンデバウムまで旅をするなかで、私は自分が何者かに変わったように誤解していました。誰かを救える人間になったのだと、信じこんでいました」


 路銀を物乞いにすべて渡してしまって、泣きそうになりながら虚勢だけで歩いてきた事実が、何者にもなれていなかった証だった。


 誰も目を覚まさなかったことよりも、誰の目も覚ますことができなかった自分自身に落胆してしまったことが、彼女にとってはもっとも罪深かった。マーロウになぐさめられたとき、唐突にそのことに気がついて、顔から火が出そうになるくらい恥ずかしくなった。


「あまつさえ私は、あなたが一緒に歌ってくれなかったせいだと、ちょっと恨みました」

『ア?』

「私の力が及ばなかっただけなのに……」


 薄暗い雲が空を覆いはじめる。

 花びらが減って、部屋に影が濃くなる。

 黒い靴下ごしの足は、ぎゅっと先端が丸まっていた。表では常に背筋を伸ばそうとする彼女が、一人でいるときにだけ見せる、幼いころからの癖である。彼女も気づいていないそれを知るのは、この世界にたった一人。


『……ったくよぉ、あー』


 おおげさなため息が吐き捨てられる。


『あの小せぇばあさんシスターは、泣いて喜んでたじゃねぇかよ』


 喉に虫でも這っているかのような、不快そうな、戸惑うような言い方だった。


、救ってんじゃん。知らねーけど』


 それきり、悪魔はぶっすりと黙った。

 だが、意地っ張りで泣き虫なシスター見習いは顔を上げないままだ。うんともすんとも返事はなく、間もなく「すう」と寝息を立てた。


 悪魔は絶句していた。

 顔があれば、あんぐりと口を開けていた。ついでにこめかみには血管が浮いていたかもしれないし、耳の先まで真っ赤に染まっていたかもしれない。手があれば、彼女のつるりとした額を景気良く弾いていただろう。


『おら早くケッコンしやがれこのバカ』


 うつ伏せが苦しかったらしい、クラリスは仰向けに寝返りをうった。赤くなった目もとからは、まだ涙が膨れてはこぼれていく。


『……早く、触れさせろ』





 月明かりが花びらとなって、ひかえめに舞う。昼間の穏やかな日差しが嘘のように、透明な夜気は窓ガラスをほの白く染めて、石造りの建物のなかはどこも急激に冷えこんだ。


『おい起きろ! 風邪ひくぞ!』

「ふあっ! っくしゅ!」


 悪魔の大声に起こされたのか、自分のくしゃみで目を覚ましたのか、ともかくクラリスは芯まで冷えきる寸前で飛び起きた。


「うわぁっ! 寒い、寒いです!」

『月明かりが雪かと思ったぞ』

「もう雨水うすいの月なのに、夜はこんなに冷えこむんですね。ああでもちょうどいい時間です、夕食をいただいて身体を温めましょう」


 寝乱れた服をさっと整えると、寝台のはしから頭巾を取る。月明かりが照らす青灰色の髪は、後ろで結いまとめた状態からだいぶほつれてしまっていたが、これも慣れた手つきで直す。身支度の速さは彼女の特技だった。


 食堂は、修道女の寄宿舎と巡礼者の宿とのあいだに設けられていた。


 開かれた扉から、修道着をまとった少女たちがわらわらと出てくる。男子と関わることを禁じられている未成年の修道女たちは、夕食の時間が早めに設定されているらしい。


 前を行くシスターの所作をならって、クラリスはプレートにパン二つ、ひよこ豆のスープ、野菜の煮込み、ゆで卵と葡萄酒を乗せた。見習いシスターが食事の用意をした故郷の修道院とはちがって、こちらは自分で自分の分の食事を取ってくる形式らしい。


 知っている顔があればそばに行きたいと思ったが、見つからなかったため、しかたなく近くの席に腰をおろす。白い布の垂らされる長机の、二人分離れたところに座るシスターは、早々に食前の祈りを済ませてひよこ豆のスープをすくっていた。


 これほど大きな修道院だと、全員集まってから一斉にお祈りというわけにもいかないのだろうと、なんとなくそわそわしながらクラリスも食前の祈りを捧げる。


(ねえ、そういえばあの子、誰だったんでしょうか)


 悪魔の返事がなかったので、ペンダントを爪で叩く。


『なんだよ、夕食は黙って食べるべきだっていつもうるせぇのに』

(黙ってます。ねえ、合唱していたとき、一緒に歌ってくれた男の子がいたでしょう? ここは一応、女子修道院じゃない。あの子ってどこの子なんだろうってふしぎに思って)

『さあ、街の子供かもしんねぇし、巡礼者の連れかもよ。女子修道院つっても、立ち入りは自由なんだし、どっから迷いこんできててもおかしくねぇだろ』


 歌いおわるころには、いつの間にかいなくなっていた。


 オリーブたちは、クラリスと会う前に歌っていたときも同じようにふらりと現れたと話していた。照れ屋なのか声をかけてはこないが、美しい歌声をおしげもなく奏でると、気づけばその姿を消している。


 幽霊なんじゃないかとおどけたオリーブに、シンシアが猫のように毛を逆立てて抗議していた。


(あの子とは、合唱じゃなくて、二人で歌ってみたかった)


 ボーイソプラノは際立っていたが、なにか主張があるといった響きではなく、じっと他の歌声に耳を傾けてそれぞれの旋律のかたちをたしかめているようだった。


 どうしてそんな歌い方をするのか——妙に気になってしまうのは、理屈ではなかった。


 主張とまでいかなくとも、なにか伝えたいことがあるから歌を歌っているのだろう。クラリスはパンを噛みながらしきりに考えるが、これっぽっちも閃かない。


 やがてスープや野菜煮込みより先にパンがなくなった。


(頭巾に花の刺繍が刻まれたら、わかるようになるのかしら……)

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