第4話 讃美歌の響き

 マーロウの言うように、黒夢病の患者たちが眠る建物は、敷地の最奥にひっそり隠されるようにしてあった。レッドウィルの生垣の向こうには、六つ丘の豊かな木々が鬱蒼としげっている。飾り気のない黒い鉄門と、そばに置かれた大きな荷馬車は、いやでも黒夢病の者の末路をクラリスに思い起こさせた。


(ここから、海割れに……)


 大昔からある海の断裂が、いったい何を原因にしてそうなったのか、亀裂に底があるのか、流れこむ海水がどうなっているのか、実態はいまだに謎が多い。ザッハトッシュ修道院の研究所は、主にこの海割れに関する研究が盛んに行われている。


 黒夢病の患者がそこに投げこまれるのは、病を広めないためでもあり、彼らの研究の一環ともなっているのだが——クラリスがそのことに気づくことはなく、ただ純粋に、人を奈落に捨てるような行いに胸を痛めた。


「馬車は明日、出ます」


 マーロウは、こめかみからこぼれる白髪を頭巾にしまいながら、うつむいて言った。


 クラリスが言葉を探すうちに、建物から二人の修道女がやってきて声をかけた。


「来てくださったのですね、シスターマーロウ」

「あら、そちらの方ははじめてお会いしますね。はじめまして、わたくしはシンシア」


 赤茶の癖髪に、目尻の丸まった穏やかそうな女性がマーロウに声をかけ、金髪に猫のようなぱっちりとした目の少女が優雅にスカートをつまんでクラリスに挨拶をした。

 どちらも頭巾は真っ黒だった。


「はじめまして、クラリスと申します。夢添いの儀のため、数日こちらでお世話になります」

「こら、シンシア。貴族の礼はここでは禁止だと言ったでしょう」

「あっ」


 赤茶の髪の女性に注意されて、シンシアは華奢な肩をぴょんと跳ねさせた。


「はじめまして、わたしはオリーブ。同い年くらいかしら。なんでもわからないことがあったら、気軽に声をかけてちょうだい」

「ありがとうございます。私、シスターマーロウからお話をうかがって、ぜひ讃美歌のお手伝いをしたいと思ってこちらに」

「まあ、ありがとう! それなら、せっかくだし私ももう少し歌っていこうかしら」

「わたくしもご一緒します! やはり歌は、大勢で歌ったほうが気持ち良いですもの」

「あら、私と二人では満足できなかった?」

「そ、そういう意味ではないです! もう、オリーブはすぐにからかうんですから」


 仲のいい姉妹のようなやり取りに、クラリスは微笑んだ。なんとなく、悪魔と自分を重ねてしまった。


『一応聞くけど、どっちがどっちだよ』

(もちろんシンシアがあなたです。あなたの印象って、昔からずっとあのくらいの歳の子なんですよね)

『……そんな扱いをされてる気はしてたから、いまさら驚きはしねぇけどよ』


 そのわりに文句たらたらな声色であった。


「素敵な合唱になりそうですね」


 嬉しそうに声を上擦らせたマーロウのあとに、シスター見習いたちが続く。クラリスだけではなく、二人も熱心にマーロウを慕っていることがそのまなざしからうかがえた。


 他の建物がどれも木の扉なのに対して、黒く重たい鉄の扉は、まるで悪夢が外に漏れないよう厳重に閉じこめているようだった。


 小さな窓には分厚い格子が嵌められていて、明かり採りとしても心もとない。中に入って扉を閉じれば、完全に外と断絶されてしまったような閉塞感に襲われる。


 湿った木の床に、いくつもの簡素な寝台が並べてあった。すべてではないが、半分ほど人で埋まっている。性別も年齢も、衣服からうかがえる身分も様々だった。


「これほど厳重になさらなくても、賛美歌で悪夢を抑えられることは明らかになっていますし、万が一発現してしまったらこんな鉄格子、なんの意味もなしませんのに……」


 格子窓を見上げて、シンシアが呟く。


「頭で理解することと、心が納得することは別なのですよ。距離はありますが、ザッハトッシュ家の居城は同じ敷地内です。彼らの心情を汲めば、いたしかたないことでしょう」

「ですから、同じザッハトッシュ家の人間として、恥ずかしいのです。心が納得できないのは、心の目を閉ざしているからですわ」

「シンシア」

「ええ、わかっています。いまのわたくしはただのシンシア。これ以上の言葉は慎みますわ」


 制したオリーブも、シンシアの憤りに同調していないわけではないようだった。少女の背中をなだめたあとで、頭を優しく撫でる。


 クラリスは、はじめて目の当たりにする黒夢病の現状に、ただただ硬直していた。


 眠りにつく誰もが、険しい顔をしていた。じっとしていると凍えそうになるような影のなか、額に汗をかいている者もいる。彼らすべてが、明日には荷馬車に乗せられて海割れへ流されてしまうのだと思うと、いますぐにでも一人一人の肩を揺さぶって回りたい衝動に駆られた。そのくせ、喉は縫い合わされたように、言葉一つうまく取り出せない。


 三人の修道女に続いてのろのろと寝台を抜けるうち、思わず悲鳴が飛び出した。


「ああ! こんな幼い子まで!」


 寝台の半分にも足が届いていない、まだ頬のふっくらとした女の子だった。


 飾り気のない衣服から、平民の子だとわかる。伏せられた銀色のまつげは涙に濡れていて、しきりにか細い呻き声を漏らしていた。


「さあ、歌いましょう。次の歌で目を覚まさなくても、その次の歌で目を覚ます方がいらっしゃるかもしれない。私たち、喉が枯れるまで、彼らの夢に寄り添いましょう」


 広間の中央に立ち止まったマーロウが、まず一節を口ずさんだ。


 いくつもある讃美歌のうち、花の夢守りを讃えたもっとも有名な歌だ。すぐにクラリスは、マーロウの低く切ない歌声に絡ませるように、弦楽器をつまびくような情感ある歌声を響かせた。


 楚々として見えるクラリスから奏でられた大胆な音色に、オリーブとシンシアは歌うことを忘れて聞き惚れた。


 合奏に加わった三人目は、いつの間にかそばに立っていた髪の長い少年だった。前髪が目鼻を隠していたが、声変わり前のボーイソプラノは天使のように美しかった。次いで、はっとしたようにオリーブたちが加わる。


 一曲が終わると、マーロウはクラリスをきつく抱きしめた。


「クラリス、あなたの歌声は、共に歌う者の心を開いてくれる」


 寄せられた頬は涙に濡れていた。

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