第3話 シスターマーロウ
身についた習慣がクラリスを朝の礼拝に間に合わせた。
ゼネディアでは、眠っている人間を起こすことはタブーとされている。国民の多くは、思ったとおりの時間に自然と目を覚ますことができる。クラリスも例に漏れず、マーロウに教えられた礼拝堂に危なげなく辿り着けた。
ちなみに悪魔が起こさなかったのはタブーを守ったというわけではなく、たんに気が向かなかったからで、彼は退屈だからという理由だけで平気で彼女を起こすこともある。
「クラリス、ああ、良かった。瞳に光が戻りましたね」
黒白の人波が流れこむ玄関ポーチの、石詰みの柱そばから、マーロウがすぐに駆けつけた。クラリスは、次に悪魔が彼女のことを『小さいばあさん』などと言ったらきつく説教をしてやろうと心に決めた。たしかに背丈は小さいが、かえって目立つその姿がもたらす安堵感には、わけもなく泣きそうになる。
「シスターマーロウ、本当にありがとうございました。あなたのおかげでこうして、万全の心身で祈りを捧げることができます」
「まあ、とんでもない。でも、笑顔が見られて嬉しいです。とても大人びて見えましたが、そうして笑うと少女のようですね。私に娘がいたら、あなたくらいの歳になるのかしら」
二人は親子のように身を寄せ合いながら、殿堂に入った。
やはりクラリスは、その荘厳さにぼうぜんとしてしまった。よく磨かれた木の床に、もといた修道院よりもはるかに多い木製の長椅子が、整然と並べられている。そしてそれらを取り囲む壁、天井、一面に描かれる色鮮やかなフレスコ画。花の夢守りオズクレイドの見る夢とされる二十一枚の絵画が、窓から舞いこむ光の花びらに照らし出されていた。
集まっているのは、黒の頭巾ばかりではなかった。修道院に預けられた女児たち、街の住民、外からやってきた巡礼者、そしてザッハトッシュ家の一族。誰もが等しく席に肩を並べて、祭壇のオズクレイド像に向かって指を組み、オルガンと共に讃美歌を合唱する。
それから司祭による聖書の朗読、説教、最後に短いオルガンの奏楽を聴いて解散。手順だけは、クラリスのよく知る朝の礼拝と変わらなかった。
「美しい歌声ですね、クラリス」
そう褒められたことは一度や二度ではなかった。それでもクラリスはこの短い時間でマーロウのことを心から敬愛していたので、はじめて褒められたときのように無邪気に喜んだ。
「ありがとうございます、シスター。私は夢添いの儀を終えたら、この歌で、皆のかなしみや喜びに寄り添いたいと考えているのです」
「歌で?」
「はい。共に歌うことは、ときに言葉を交わすよりずっと深いところで、心を通じ合わせることができると思っております。誰に胸のうちを明かすこともできず苦しんでいる、そんな人を、歌を介して抱きしめたいのです」
こうして舌が弾むとき、いつでも水をさすようにからかってくる声が、いまは黙りこくっている。
悪魔はいまどんな表情をしているのだろうかと、クラリスは少し気にした。最初に彼女の歌声を褒めたのも、歌で心を通わせられることに気づかせたのも、彼なのだった。
「ああ、とても……本当にとても素敵な夢だと思います、クラリス!」
マーロウは真昼の海のように、青い瞳を輝かせた。
思っていたよりも情熱的な反応に、クラリスは目をしばたかせる。だがマーロウは構わず、頬を赤くしてさらにこう続けた。
「あなたの歌声を聞いて、ぜひにと思ったことがあったんです。クラリス、黒夢病のことは知っていますか」
「はい、悪魔の仕業だとか。夢に取り憑かれて眠ったきりになり、夜になると悪夢を発現させると聞きました。悪夢は残虐に人を襲い、傷つけられた者も病になる場合があると」
「いまのところ、治療の手段は見つかっていません。讃美歌を聴かせることで悪夢の発現を抑えることはできるのですが、病を広げてしまわないため、結局はその命を……」
マーロウはかなしげに目を伏せた。
「リンデバウムは、東の丘を越えてすぐのところに海割れがあります。ザッハトッシュ修道院は、黒夢病の方々を預かって、親族に代わって海割れに流すことを請け負っています」
「そんな……!」
思わずクラリスは口を覆った。
これまで彼女は、黒夢病の患者に会ったことはなかった。悪魔の悪行の一つとして、そういう現象があることは知ってはいたものの、その現実を理解することはなかった。
「修道院の敷地の外れの方、ここから随分と歩くことになるのですが、そこに黒夢病の方々を預かる建物があります。朝晩、讃美歌を聴かせる決まりはありますが、そのほかの時間も有志の者たちが歌を歌っています」
「ぜひ、行かせてください」
すぐにクラリスは申し出た。
「ありがとうございます、そう言ってくれると信じていました。でもまだ疲れが残っているでしょう。明朝には夢添いの儀があるので、今日はお休みになって。シスターとなったあと、新たに属する修道院が決まるまで数日ここに留まることになるかと思います。そのあいだ、時間のあるときに」
「お気遣いありがとうございます、シスター。でももう、すっかり休めました。それに私、そういうことがしたくてシスターになるのです。いますぐにでも、向かわせていただきます」
「それなら私が案内いたします。クラリス、あなたってひとは……本当に、その頭巾に白い花が飾られるときが楽しみでなりません」
感極まったように、マーロウは声を詰まらせる。
「……ときおり、本当に稀なことですが、自力で目を覚ます方もいらっしゃるのです。信心深い者が救われたのだと、神父さまなどはおっしゃるのですが、私はもしかしたら、私どもの歌が励ましになったのではないかと……おこがましいとわかってはいるのですが」
「ええ、きっとそうです。眠りで心を閉ざす者にも、歌声は届くはずですから」
足の裏は皮が剥けてひりひりと痛んでいたし、重たいカバンを持っていた腕は鉛のように肩からぶらさがっていたが、頭は雪の日の朝のように冴え冴えとしていた。
(どうせ盗み聞きしているのでしょう? どうかあなたも、私と歌ってちょうだい)
『ハァ? なんで俺が』
(だって私、あなたと歌っているときが一番、素敵に歌えるんです)
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