第10話 花嫁の間

 歌声を重ねたとき、悪夢のなかのシスターとクラリスの心は完全に一つになっていた。


 クラリスが彼女たちを通して悪夢を見たのと同じように、シスターたちはクラリスを通して礼拝堂で起こった一部始終を見ていた。神に祈ることをやめ、悪魔に願い、人々を救う力を手に入れた強欲な修道女に、皆が心を寄り添わせた。あわれで優しいこの子をなんとしてでも助けるのだと、固く決意した。


「ここなら安全です」


 結託したシスターたちによって司祭たちの追求を逃れたクラリスはいま、修道院の敷地最奥に君臨するザッハトッシュ城の一角、純白の調度品と色とりどりの花飾りがあしらわれる『花嫁の間』に立ち尽くしていた。


 夢添いの儀の身支度に使われる、修道女のみ立ち入りを許される聖域である。

 天井には花や動物の飾り彫りが一面に施され、オズクレイドの象徴でもある鷲と目が合うと、クラリスは恐れ多いやら申し訳ないやらで気を遠くしてしまいそうになった。だからと言ってうつむけば、汚れ一つない純白の絨毯を土足で踏みつけるみずからの足もとが目に入って、それはそれでめまいを覚える。

 『花嫁』の間とあって、純潔を表す白が部屋じゅうを統一するなか、同系色であるはずのクラリスの質素な寝巻きは浮いていて、コントラストが際立つはずのシスターたちの黒はなぜだかしっくりなじんで見えた。


「クラリス、夢添いの儀を行いましょう」

「えっ」

『ハァ?』


 マーロウがシスターたちに目配せをすると、彼女たちは心得ていたようにおのおの散らばって、洋服箪笥を開けたり化粧道具を取り出したりと忙しなく準備をはじめた。

 カーテンをぴったり閉ざしたシスターが、衝立の奥のバスタブに湯を張りだす。

 本来そのためにリンデバウムを訪れたクラリスは、当然それが儀式の一環であることを知っていた。湯浴みで身を清めたあと、純白の修道着に着替えて、花の夢守りオズクレイドが眠る『ゆりかご』へと向かうのだ。


「い、いけません、シスターマーロウ。もうご存知かとは思いますが、私はすでにその資格を失ってしまいました」

「ですがあなたは、シスターとなるためにこちらにいらした。儀式をしなければ怪しまれます。それに万が一のとき、神の花嫁シスターであれば、神父さまでも手出しできません。私たちを裁くことができるのは主のみです」

『だぁから、そのに裁かれちまうんだって。こいつはもう俺の嫁なんだから、神の花嫁になんかなれるわけねぇだろうが』


 まるでコクヨウの声が聞こえていたかのように、マーロウはいたずらっぽくウインクをして言った。


「大丈夫です。オズさまは話のわかるお方ですから。それに、きっとあなたのことをお気に召されると思いますよ」

「そうそう。オズさまはかなり娯楽に飢えてらっしゃるんです。『悪魔と契約したシスターだなんておもしろい!』って、手を叩いてお喜びになるんじゃないかしら」


 まるで本当にオズクレイドと話をしたことがあるかのように、シスターたちが色めきたつ。だが彼は産まれる前から、そしていま現在も深い眠りのなかにいるはずである。


「みなさんは、オズクレイドさまとお話ができるのですか? どんな方なのでしょう」

「ぜひお会いして、実際に知っていただくのが良いかと思います。素敵な方ですよ」

「私たちみんな、オズさまが大好きなんです。夢添いの儀が終わればあなたも、いまよりもずっとオズさまを愛しく思われるはずですよ」

『待て待て待て』


 にわかにコクヨウが慌てた声を出した。


『なんだこいつら洗脳でもされてんのかよ。てかあんたもなに興味持ってんだ。だめだぞ、俺はソイツとちがって嫁はあんたしかいねーし、あんたも俺以外認めねーからな!』

(わかっています。もう……)


 人間のかたちの姿を見たときは、その美しさに息が止まるほどの衝撃を受けたが、こうして声だけになればやはり弟のようである。クラリスのなかで長年つちかってきた『十五、六歳ほどの少年』像は、たった一度、それもほんの一瞬の対面では覆せなかった。

 やれやれと肩をすくめながら、けれど正直なところ、クラリスは彼のこういうところを可愛いとも思ってしまっているのだ。


「私、オズクレイドさまの花嫁にはなれません。私が添い遂げる相手はただ一人……すでにそう、心に決めてしまったのです。それでも頭巾に花をいただけるでしょうか……」


 シスターの頭巾に飾られる花の刺繍は、人の手でなされるものではない。


 純白の修道着は儀式を終えると漆黒に染まり、頭巾のベールにはこの世のものでない白の糸で刺繍が刻まれる。このとき染められた修道着はシスターにとっての礼装となり、頭巾は婚姻の証として、外に出るときは必ず身につけられる。


 衣服はごまかせたとしても、頭巾の刺繍だけはごまかせない。糸は不思議な輝きを放つ。周囲にシスターであることを認めさせるには、どうしても刺繍を授る必要があった。


「大丈夫ですよ。話のわかるお方だと言ったでしょう。……それに、オズさまはあなたのように心の美しい方を決してお見捨てになったりしません。必ず愛してくださいます」


 心が美しいというのは、彼女たちのことを言うのだとクラリスは思った。


「ありがとうございます……本当に、みなさんこんなに心を砕いていただいて……」

「いいえ、そうおっしゃらないで。私たちはずるいのです。あなたが私たちの代わりに黒夢病の方々を救ってくださることを望んでいるのです。希望を託していると言えば聞こえはいいですが、私たちは主のご加護による安寧のもと、あなた一人に罪を背負わせている」

「シスターマーロウ……」


 マーロウの頬には、まだ涙のあとが残っていた。彼女だけではない、ここにいるシスターたちの誰もが、悪夢の傷を残している。


「シスター、あなた方は正しい。間違っているのはすべて私です」

「そうでしょうか。私たちもあなたも、人々を助けたいと祈った。ただ、その相手が神か悪魔かというだけで、祈りが罪に変わったりするものでしょうか」


 クラリスはどきりとした。マーロウの言葉は、聞く者によっては神への冒涜ともとられてしまうような、危ういものだ。


 青い瞳はまっすぐクラリスを見つめる。


「ぜひオズさまに聞いていらして」

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