第27話 忘れたい過去

 美香は相変わらず、家でふさぎ込んでいた。あの悪夢に悩まされているのもあるが、親友の香織を失くしたのが大きかった。


「もうすぐ休暇だ。ホテルの予約を取ったのだろう。気晴らしになるよ。」


 上林が声をかけた。確か8月15日に近江観光ホテルに部屋を取っているはずだった。


「ええ、そうだったわ。でもその前に行きたいところがあるの。」

「それはどこ?」

「あなたがこの時期に行っているところよ。」


 美香はそう言った。私はそれに驚いた。彼女には言わずに一人で行っていたので・・・。


「私も行きたいの。これを見て。」


 美香は自分のスマホを出した。その待ち受けは2人の写真になっている。だが何かが違う・・・。


「よく見ててね。」


 美香は画面をピンチアウトした。するとその背景に女が写り込んでいた。それを見て上林は愕然とした。


「これは・・・」

「そうよ。あなたの前の奥さん。裕子さんよ。」


 確かにそれは裕子だった。彼女もあの恨みのこもった目で見ている。


「私たちのことを怒っているのよ。だから私も墓参りに行くわ。」

「そうか。そうしてくれるか。」


 上林はため息をついた。あの転落事件以来、おかしなことが起こっている。大山大吾の妻が恨んで死んでいった。それが裕子の恨みも呼び起こしてしまったのか・・・。

 上林は2年前のことを思い出した。


     ――――――――――――――――――――――――


 妻の裕子と別居が続いていた。そんな時、事件で美香と知り合った。いろいろと相談に乗ってはいたが、ただそれだけだった。それがある時、美香からボランティア活動の誘いがあった。彼女は大学のサークルで『琵琶湖をきれいにしよう』の活動をしていた。簡単に言うと清掃作業である。ただ湖岸ばかりでなく、ボートを出して湖のゴミも拾ってきれいにしようということだった。

 特に仕事が忙しくなかったこともあり、若い人たちと接するのもいいかと思って休日に参加することにした。それが悲劇につながった。偶然にも裕子もその日、気晴らしにボートに乗って釣りをするために琵琶湖に来ていたのだ。

 その日は曇りがちだった。そうなると湖面のキラキラした輝きは失われ、どす暗い鉛色に変わってしまう。ただ大学生を中心にしたボランティアの若い力がそのうっとうしさをはねのけようとしていた。

 上林は美香とともにボートに乗って湖面のゴミを拾っていた。気が付くと岸からかなり離れてしまっていた。


「ずいぶん来てしまったね。もう戻ろうか。」

「はい。でもここまで来ると水がきれいですね。」


 上林は美香と親しげに話していた。それをボートに一人で乗っていた裕子が見つけたのだ。彼女には上林と美香が親しい間柄に見え、今の状況はあの若い女のためだと怒りがふつふつと湧きあがってきた。


「あの女のせいね! 許せないわ!」


 裕子はボートを上林たちのボートに近づけた。それは上林の背後からだったので、気付いたのは美香だった。彼女は笑顔で裕子にあいさつした。


「こんにちは!」

「あんたね! 夫を誘惑していたのは!」


 その声に上林は振り返った。彼の後ろにはボートがそばに来ており、そこに怒りで目を吊り上げた裕子がいた。


「お前…」

「お前じゃないわ! こんな小娘と! 許さないわ!」

「おい、誤解している。この人はな・・・」


 上林はそう言ったが、裕子はさっと飛び移ってきて美香の肩をつかんだ。


「この泥棒ネコ!」

「やめてください!」

「おい、お前、止めろよ。誤解だ!」


 揺れるボートで3人がもみ合っていた。その光景は湖岸からも見えた。そこにいた人たちは上林たちに何かトラブルが起きたのはわかった。だがどうしたらいいかわからず、ただ見守っているだけだった。

 そのうちにバランスを崩してボートが転覆した。それで3人とも水の中に放り出された。着衣のままではいくら泳ぎがうまくても溺れることがある。それなのに美香や裕子は泳げなかった。またまずいことに3人とも救命胴衣をつけていなかった。


「助けて!」


 少し離れたところで裕子が苦しそうに叫び、手足をバタバタさせていた。


(これはいかん!)


 上林は着衣のままで泳ぎにくいものの、すぐに裕子を助けに行こうとした。だがその時、別の方向から美香の叫び声も聞こえた。


「助けて! 上林さん。 助けて・・・」


 美香はもう沈みかけていた。このままでは危ないと上林は美香の方に向かった。


「大丈夫だ。しっかり!」


 上林はぐったりした美香をしっかりとつかまえてその脇に抱えると、もう一艘のボートに泳いで向かった。そしてボートにたどり着き、何とか美香をそこに乗せた。


「もう大丈夫だ。」


 上林は美香に優しく言葉をかけた。美香も安心して上林をじっと見ていた。

 その様子を怒りの目で見つめる者があった。それは裕子だった。彼女は溺れて必死にもがきながらもすべてを見ていた。


(妻の私よりあの小娘を助けた・・・)


 それは裕子にとってショックだった。目の前でおぼれる私をそのままにして、上林は美香を助けているのだ。妻の私よりあの小娘の方が大事だというのか・・・彼女は手足を動かすのもやめて茫然としていた。


(許せない! 許せない!・・・)


 裕子の中で2人への恨みがふつふつと湧き、その心は怒りで一杯になった。彼女は恨みのこもった目で2人を睨みつけた。

 一方、上林は、次は裕子を助けようと振り返った。すると裕子はもがきもせず、ただ顔を半分沈ませていた。そしてその目はじっと2人を睨みつけていた。まるで(呪ってやる!)ともいわんばかりに・・・。それはボートから身を起こした美香にも見えた。

 上林は背筋が凍るような寒気と恐怖を覚えてすぐに動けなかった。やがて裕子は湖に沈んでいった。「ゴボッ。ゴボッ。ゴボッ。ザー。ザー。ゴボッ。」という音を残して・・・。


「女の人が消えたぞ! 助けに行け! 救急車を呼べ!」


 湖岸で騒ぐ人たちの声が聞こえた。そこで上林ははっと我に返った。すぐに裕子の沈んだ場所に向かったが、そこに彼女はいなかった。潜って探したものの見つけることはできなかったのだ。


        ―――――――――――――――――――


 その後、裕子は水死体として発見された。3人の間でトラブルになっていたことはあったが、ただ偶然で生じた水の事故とされた。それでこの件は解決した。

 だが上林も美香もそれで終わりにならなかった。2人はその悪夢に悩まされ続けた。特に美香はひどかった。それで体を壊してしまったのだ。その責任を感じて上林は美香の元をよく訪れるようになった。

 時が過ぎたためか、上林が献身的に支えたためだろうか、美香は体調を次第に取り戻していった。もちろん2人を悩ましていた悪夢も見なくなり、あの忌まわしい記憶は忘却されていった。それから皮肉なことに、裕子の思いとは逆に、上林と美香の2人の仲は急速に深まっていった。そして2人は1年前に結婚することになったのだ。

 あれから2年たっても上林は裕子に対してすまないという思いが強かった。だからこの時期には墓参りに行っていた。

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