第9話 香織
上林と横河は近江医大の駐車場に停めておいた車に乗り込んだ。ハンドルを握る横河が車を走らせながら上林に尋ねた。
「これからどこに行くのですか?」
上林はまだ気になることがあった。それは川口香織のことだ。事件は大山大吾と川口香織の不倫から発していると思われた。啓子殺しの容疑者として海野渉は湖上署にマークされていたが、川口香織についてはそのままになっていた。こんなことが起こっても彼女の生活は変わった様子もなく、喫茶店の店員として働いているらしい。上林は直に香織から話を聞きたいと思った。
「川口香織から直接、話を聞こう。」
「いいのですか? 湖上署が捜査をおこなっているのに。」
「大丈夫だ。佐川たちは海野をマークしている。川口は関係がないと見たのだろう。」
川口香織は喫茶「風水」に勤めている。それは瀬田川沿いの景色の美しい場所にあった。店内には女性店員が何人かいるが、20代前半に見える若い女性は一人しかいなかった。化粧もおとなしめで清楚な感じで不倫をしていたような女性には見えなかった。上林と横河は店内に入ると、密かにその若い女性に警察バッジを小さな声で言った。
「川口香織さんですね。お話を伺いたいのです。」
「はい。わかりました。もうすぐ休憩です。外で待っていてください。」
何度も捜査員が来たのだろう。彼女の方も慣れたものだった。話しぶりからはしっかりした女性のように上林は感じた。外でしばらく待っているとその若い女性が出て来た。
「川口香織さんですね。瀬田署の上林と横河です。」
「はい。でも別の刑事さんが何度も聞きに来られていますが・・・」
「多分、別件だと思います。大山大吾さんをご存じですね。」
上林の言葉に香織の顔色が変わった。
「その件はお話ししました。大山さんとはお別れしたのです。」
香織はやや感情的になりながらもきっぱりとそう言った。
「いえ、そうではなくて。大山大吾さんが亡くなられたのです。」
「えっ!」
上林の言葉に香織は絶句した。その様子をじっと見ながら上林は考えた。
(本当に知らなかったのか? それともそう装っているのか?)
「驚かれたでしょう?」
「ええ。いきなりだったのですから・・・」
「びわこ展望ホテルから転落されたのです。」
「えっ! あそこに・・・」
「ええ。いつも泊られていた703号室から窓を突き破って転落されたのです。」
「殺されたのですか?」
香織はいきなりそんなことを聞いた。(これは何かある)と上林は感じた。
「どうしてそう思われるのですか?」
「それはちょっと・・・」
香織は言葉を濁した。何かを隠しているかのように。
「大山さんに変わったことがあったのですか? どんな些細なことでもいいので話してください。」
そう言っても香織は顔を下に向けて唇を結んでいた。その様子に我慢ができなかったのか、横河が口を出した。
「おっしゃっていただけなければ署の方でお伺いしますが。」
その脅すような物言いに香織はビクッとしていた。上林の見るところ、この川口香織という女性が悪い人間に思えなかった。彼は横河を制しながら優しく言った。
「いや、これは失礼しました。そんな無理なことはしませんから。でもあなたが知っていることは大山さんの死の原因究明ためには重要なことかもしれないのです。隠さずに教えてください。」
香織はそう言われて重い口を開き始めた。
「大吾さんとは奥さんが亡くなられてからすぐに別れました。いえ、奥さんがいること自体知らなかったのです。事故で亡くなられて初めて知ったのです。」
「そうだったのですか。」
「はい。大吾さんは私をだましていたのです。それが許せなくて・・・。でもまだ時々メールが来るんです。見ずに消してブロックしても別のアドレスから。でも私はそれを無視していました。でも・・・」
香織はまた言葉を濁した。これが言いたくなかったことかもしれない。
「でも、どうしたのです?」
「一度だけ電話をかけたのです。あまりにもしつこくて、止めてもらおうと思って。すると『俺は呪われている。』なんて言うんです。何だか怖くなってすぐに電話を切ったのです。」
「それはいつ?」
「一昨日の夜だと思います。もう関わりになるのが嫌で警察の方にはそのことは言っていませんでした。すいません。」
別れた相手のことを思い出したくないのだろうと上林は思いながらも、大吾の電話の言葉が引っ掛かった。
(大山の身に何か、起こったのかもしれない。しかし『殺される。』ではなく、『呪われている』とはどういう事なんだ・・・)
「わかりました。ところで8月1日の夜中の3時、あなたはどこにいました?」
「寝ていましたよ。そんな時間。」
「証明できる方はいませんか?」
「一人暮らしなんです。私は疑われているのですか?」
「いえ、念のために。」
香織が嘘を言っている様子はない。事件が起こったのは真夜中だから、こんな時間にアリバイがある者などいないだろう。大山大吾のスマホは一緒に落ちて破損している。データの復旧ができれば彼女の言うことが本当だと証明できるだろうと上林は考えた。
「お手間を取らせました。もし他に思いついたことがありましたらここに電話ください。」
上林は名刺を渡した。そして立ち去ろうとするときに香織に声をかけられた。
「もしかして美香の御主人ですか?」
「ええ、そうですが・・・」
「美香とは大学時代からの友人なんです。昨日も電話で話したところなんですよ。」
「そうでしたか。」
上林は思い出した。確か、美香の話によく香織という大学時代の親友の名前が出てくる。テニスのサークルが一緒で、今でも連絡を取っていると。そういえば昨日、帰宅したときに美香が電話していた相手は香織だったのかもしれない。
「美香からよく話は聞いています。」
「美香にも相談に乗ってもらっているんです。今回のことで。でも御主人が担当する事件の関係者ならあまり電話をしてはいけないですね。」
「そんなことはないですよ。また電話してやってください。では・・・」
そう言って香織と別れた。上林の印象では香織はシロだ。彼女は何も知らない。だが事件のキーを握っている気もしていた。
署に帰る途中で横河が尋ねた。彼の目には香織も容疑者の一人として映っているようだった。
「ちょっとまずいんじゃないですか? 容疑者かもしれない者が奥さんに電話するっていうのは。」
「いや、考えがあるんだ。もしかしたら我々には言えないことをしゃべっているかもしれない。」
香織は美香にいろんなことを相談しているという。美香に聞けば香織のことがもっとわかるのかもしれないと上林は思った。横河はそんな上林の考えに否定的のようでそっぽを向いていた。
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