第8話 法医学解剖

 瀬田署の捜査本部には捜査員から様々な情報が集められていた。上林が見るところ、事故や自殺の線は薄そうだ。他殺の線で証拠を固めて行かねばと。だが容疑者の海野渉に対しては別の保険金殺人容疑で湖上署が動いている。自分たちが動くわけにはいかないと思っていた。それにどうやって大山大吾を部屋の窓を突き破らせて転落させたかということだ。それにそこからどうやって抜け出したか・・・まだ解明しなければならない点は多かった。


(まずは遺体におかしな点はないか。見落としている点はないか・・・)


 上林はまず法医学解剖の所見に目を通した。それには様々なことが書かれていたが、転落での衝撃で死んだことには間違いはないようだった。だが大山大吾の死顔が何かにおびえて驚いたように目を見開いているのが気にかかっていた。


「おい、横河。出かけるぞ。」

「え! どこへ?」

「近江医科大学の法医学教室だ。大山大吾の解剖所見について詳しく聞きに行くぞ。」


 上林は立ち上がって早足で捜査本部を出て行った。横河は訳が分からないままにその後を追った。


 ◇


 近江医科大学は切り開いた山の中にある。大山大吾の遺体はそこの法医学教室に運ばれて解剖されたのだ。基礎研究棟のエレベーターで4階まで上がると法医学教室があった。


「すいません。瀬田署の上林と横河です。先日の法医学解剖の所見を伺いたいと思いまして・・・」


 するとすぐに白衣を着たスタッフが出て来た。


「准教授の藤田です。8月1日のご遺体ですね。お話は伺っています。さあ、こちらに。」


 とすぐに研究室に通された。とっさに思いついて急にここまで来たが、横河が車の中から法医学教室に連絡をしてくれていたので話は早かった。藤田准教授は手に持っていたファイルを広げた。


「高所からの転落で頭蓋骨骨折、脳挫傷。これが直接の死因と思われます。これが何か?」


 確かにそれに間違いはないが、上林は気にかかっていた疑問をぶつけてみた。


「いや、ちょっと思ったんですが、被害者が何かに驚いたような顔で死んでいたものですから。」

「え? そうですか? まあ、飛び降りた時のショックかもしれませんね。でも・・・」


 藤田准教授はファイルのページをめくった。そこには大山の顔が大きく写し出されていた。やはり目を見開いて何かに驚いた表情をしている。上林はその写真をあらためて見て、


(大山は驚くべきものを見た。それだけではない。強い恐怖も覚えたんだ。)


 と思った。藤田准教授はその顔の何か所を指した。そこには無数に散らばる小さな赤い点がかすかに見えた。


「顔や眼球結膜に小さな溢血点が多数出ているのです。」

「溢血点?」

「ええ、死因ではないですが、転落する前に力んだり窒息するような状態に陥ったようです。」


 溢血点とは過度なうっ血などにより毛細血管の破綻、出血が起こり、小さな出血斑が皮膚などに生じたものだ。それならばと・・・上林は聞いてみた。


「首を絞めて失神させた後に転落させた可能性についてはいかがでしょうか?」

「ふむ・・・。しかし首を絞めた後はありませんでした。どちらかというと口をふさがれたか、自ら呼吸を止めて力んだいう感じかもしれません。」


 藤田准教授は答えた。口をふさがれて失神させられ、それから窓から落とされたときに目を覚まして驚いた・・・それならば被害者の大山があんな顔をして死んだのも説明できるかもしれない。だが上林にはやはり引っかかるものがあった。

 それからいろいろ聞いてみたが、他に解剖所見からは不審な点は見つからなかった。薬物や毒物も検出されていないし、その兆候もない。

 帰り際に横河が上林に言った。


「無駄足でしたかね?」


 上林は小さく首を横に振った。どんな可能性も一つ一つ潰していかねば解決できない・・・それは上林の今までの経験からしてそうだった。

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