第4話 上林の家
夜が遅くなって上林は自宅に帰った。そこはやや古くなった一軒家だった。1年前に中古の家を買って、妻の美香と2人で暮らしている。今日は早朝から呼び出され、転落死について近所の聞き込みに回っていた。一日中、動いていたせいもあるが、あのホテルの不気味で重圧感のある雰囲気が彼の心を疲れさせていた。家で少しでも過ごせば体や心の疲れが取れるかもしれない。
「ただいま。」
「おかえり。」
美香が笑顔で出迎えた。30半ば過ぎの上林に比べて若い妻だった。2人は1年前に結婚したのだ。
「今日はね。ご馳走を作ったのよ。」
「それは楽しみだ。」
結婚して1年が過ぎたが、美香は再婚の上林にとっていまだに新鮮だった。新婚気分はまだ続いている。キッチン横の棚には琵琶湖を背景にした2人を写した写真が飾ってあった。これを今も2人はスマホの待ち受けにしている。
「お疲れね。」
「ああ、また厄介な事件が起こったから。」
「あのホテルからの転落死ね。瀬田署の管轄でしょ。」
「まあ、そうだけど。」
美香は心配なのか、仕事のことを聞きたがった。だが上林は刑事という職業柄、仕事のことを家で話さないようにしていた。しかし話の端々で多少は出てくることはあった。
上林は食卓に着いた。数品の料理が並んでいる。今日は美香にしてはがんばった方だった。彼女は結婚するまで料理をほとんどしたことがなかった。だから最初はひどいものが出て来たが最近はさすがに慣れてきたようだ。上林は2度目の結婚だからどうしても前の妻と比べてしまうが・・・。
「もうすぐ1年ね。」
美香がいきなり言った。上林は「うん・・・」と答えながらそれが何かを考えた。その様子を見て美香が眉をひそめた。
「覚えてないの? 結婚記念日よ。」
上林は大きくうなずいた。確かに忘れていた。結婚してもうすぐ1年になるのだった。そうするとあれからは2年になる。思い出したくはないが・・・。
「ええと・・・そうだったな。」
2人が結婚したのは8月15日だった。周囲からはあまり祝福されていなかったので2人だけで式を上げた。ちょうど休みが取りやすかった時期だ。
「ねえ。記念にどこか行きましょう。近くでいいから。お盆休み取れるでしょ。」
「まあ、多分・・・」
上林は言葉を濁した。今抱えている事件が解決すればだが、1日だけなら、それもお盆なら休みがもらえそうな気がしていた。だが急に呼び出しがあるかもしれないから遠くには行けない。
「じゃあ、計画を立てるわね。」
「ああ、任せるよ。」
「とにかく約束よ。休暇を取って来てね。」
美香は言った。上林は「わかった。わかった。」というようにうなずいた。彼は思っていた。
(いつも放ってばかりいるからたまにはいいか。その前にあそこに行かねばならないが・・・)
ベッドに疲れた体を横たえると、上林はふとあのラジカセから聞こえてきた雑音が気になった。あの「ゴボッ。ゴボッ。ザー。」という不気味な音。それが耳にこびりついているかのように頭に中で響いていた。聞いたことがあるようだが思い出せない・・・と考えているうちに彼は眠りに落ちた。
―――――――――――――――――――――
気が付くと上林は水の中にいた。あわてて浮き上がって水面から顔を出した。辺りを見渡せばどんよりとした曇り空で向こうに見慣れた景色が見える。ここは琵琶湖だった。彼は服を着たまま湖に浮いているのだ。ふと横を見ると溺れかけてぐったりとした美香を抱えていた。
「しっかりしろ!」
そばにはボートがある。そこに美香を引き上げ、上林もボートの縁につかまった。すると背後に体を貫くような強い視線を感じた。振り返ると少し離れたところに半分沈んだ女の顔があった。
濡れた髪の間から恨めしそうな目でじっと見ている。それはまるで2人を呪っているかのようだった。その視線に上林は身が凍り付くような心地がして、恐怖で体が震えていた。やがてその女の顔はじっと上林たちをにらみながらそのまま水の中に消えていった。あぶくを残して・・・。
―――――――――――――――――――――――――
「うわっ!」
上林は飛び起きた。息を荒くして辺りを見るとそこは寝室だった。あれは夢だ・・・と思うまでにしばらく時間がかかった。横では美香がすやすやと寝ている。
(またあの夢を見てしまった。ここしばらくは見ていなかったのに・・・。疲れているためか・・・)
上林は額の汗をぬぐった。
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