鳴く②

 慌てて下を向く。幸い、下ろしていた髪が目元を隠してくれていた。だが、私の気は落ち着かない。何故自分が泣いているのか分からない。泣きたいなんて思っていないのに、涙は勝手に溢れ止まることを知らない。


 気持ち悪い。制御できなくなった自身の体が。自分の心が何者かに奪われたかのような喪失感が。授業は、当然かのように頭には入らなかった。久しぶりに待ち遠しく感じた休み時間、気分が優れない、と必要以上に心配してくれる担任に告げ保健室に駆け込む。


 養護教諭は美人か老婆というのは、法律で決まっているのだろうか。大して高くもない私よりも遥かに背の低い養護教諭が、その整いすぎた顔に優しい笑みを浮かべながら、相応の可愛らしい声でベッドに通してくれる。身体は至って健康だが、甘ったるいココアのような声をかけられて遠慮できるほど今の私には無償の優しさへの耐性がなかった。


 初めてだ。体調を崩して学校を休んだことはおろか、保健室に世話になることも今まで一度もなかったのだ。良い大学へ進学したい、という志はないが、成績は普通より少し上が通常で、皆勤は当たり前だった。こうなる原因は、未だに分かっていない。私は、あの鯨よりも自分のことなんて何も知らないんじゃないか。カーテンに囲われたベッドの中で、私は苦笑をこぼす。


 きっと、疲れが溜まっていた。今までのツケが帰ってきたんだ。一度休んでみるのも悪くないかもしれない。お世辞にも寝心地がいいとは言えない冷たいシーツの上で、私は鯨を思いながら目を閉じた。


 いつもの虚空は、そこにはなかった。何者にも汚されないとでも言うような、強い意志を表明していたはずの白は、今は黒く淀み、濁っている。汚い巨鯨の姿もなかった。新しいシーツに墨をこぼしたような不快感の中で、私はただ立ち竦んでいた。


「……メイ」


 彼女の名を呼ぶ私の声は酷く掠れていた。


「何隠れてんだ、出てこいよ、メイ」


 埋め尽くされそうな不安を振りほどくように、私は語気を研ぐ。巨鯨は、出てこない。


「……怒ったのかよ。嫌気でもさした?」


 返事はなかった。あの巨大な存在感も、包容力のある声も、何もない。胸騒ぎがした。


「なぁ、……私は、」


 言葉が詰まる。私が感じているものは、寂しさだと、何故かハッキリ分かった。


「私は……どうすりゃいいの……?」


 私の問いは虚空に溶ける。嘲笑うような静寂だ。ここに彼女がいても、答えは得られないと理解している。それでもただ、今は傍に居て欲しかった。


 ふと、寝ていた寝台が沈む。ゆっくり目を開けると、霞んだ視界に見慣れた姿があった。


「……せんせい」


 いつの間にか、担任がベッドに腰掛けていた。彼女は優しく頷き、「大丈夫?」と私にティッシュの箱を差しだす。予想外の出来事に、涙は一時的に止まった。私のプライド的に、他人に涙は見せたくなかった。見せたくなかったけど、担任の安心感にプライドは簡単に白旗を振った。優しい声に涙は余計に込み上げる。


 とうとう私は声を上げて泣いた。泣くことに慣れていない身体は呼吸の仕方を忘れ、色気も可愛げもない嗚咽が漏れる。華奢な掌に背中を撫でられ、撫でられるごとに涙は溢れる。


 しばらく泣き続けて、泣き疲れた私は涙と鼻水の区別がつかない水分をカサつくティッシュで乱暴に拭った。鼻の下がヒリヒリする。早めに薬を塗らないと明日荒れてしまいそうだ。


「どうしたの、海瑠。話せる範囲でいいから、話してごらん」

「……いやぁ。なんでだろ。よく分かんなくて」


 泣き腫らした目はもう誤魔化せないが、できるだけいつものように明るく振舞ってみる。だが今の彼女の前でそれは逆効果なようだった。


「海瑠は強いから、きっと自分が疲れてるのに気付けないんだよ。なんでもいいよ。今思ってること、なんでもいいから教えてくれる?」


 海瑠は強い。メイにも似たようなことを言われた記憶がある。確かに私は強いと、自分でも思っている。ちょっとやそっとのことでは悩まないし、引きずることもなかった。私が今思っていること。少し考えて、小さな声で呟く。


「……部活、辞めたいな……って、」


 自分で言って驚いた。確かに部活動は好きではない。ただ、あの落ち着いていて騒がしい矛盾した空間は嫌いではなかったはずだ。「そう……」と担任は優しく微笑む。


「それは、どうして?」

「どうして……だろう」


 まるでその思考が丸ごと抜け落ちてしまったかのように、いくら脳を探ってもその理由が見当たらなかった。分からない、と言うより、失くした、のが正しい。目の前で担任は少し困ったように、けど微笑みは崩さず私を見ていた。


「……――、―――?」


 勝手に口が動く。頭はぼぅっとしたままで、自分が何を言ったのか分からない。なのに、目はしっかりと担任の瞳を捉えている。


「えっと……まぁ、――よね」


 あぁ、困っている。私が放った言葉で、大人が困っている。


「…………―、――、……」


 彼女は心配そうに頷いてから、ゆっくり私の傍を離れる。行ってしまう。いや、私が行かせたのか。再び訪れた静寂から逃れるように、私はベッドに沈む。


 夢を見ていた。温かく、穏やかな夢だ。そこに冷たい虚空はなく、ただ明るい神秘が広がっていた。人跡未踏の果て。まるで、仙界。


 目が覚めたら、昼休みが終わっていた。さすがに授業に戻り、美術室には行かずに帰った。翌日も、部活は休んだ。



 ■+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+■



「おのぉ……」


 これは小型犬と例えるべきか、それとも大型犬か。取り敢えず、今にもクゥンと鳴きそうな顔で、祐希が前の席にどっかりと座り込んだ。


「何だ、随分しおらしい」


 私のメンタルは完全に生き返っていた。何に悩んでいたのかすら、すっかり忘れている。一度泣いたらスッキリするようだった。溜まった汚れを吐き出したことで、自分の中でケジメが着いたのだ。あまりにも、単純な身体。今なら私のすべきことも、答えを出せそうだ。


「……部活、いつくんの?」


 想定内の質問。答えは決まっている。


「明日、明日行くよ」

「それ、昨日も言ってた」

「今日はめんどくさいな……明日ね」

「……」


 お、初めて見る顔。祐希は大きな目で私を見つめている。睨んではいない。ただ怒ってはいそうだ。


「……わかったよ。明日は、絶対だからね。来なかったら、友達やめる」

「んぅ、そりゃ困る」

「じゃあ来てね」

「はいよ」

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